2018年9月から2019年3月にかけて、港区赤坂中学校の甲斐利恵子先生の国語の授業に通わせていただきました。年度が切り替わる前にその総括をして、この経験を今後につなげたいと思います。
目次
甲斐利恵子先生が執筆された本
甲斐利恵子先生の授業訪問シリーズ
関連エントリ
「甲斐利恵子教室」と呼びたくなる場所
僕はもともと担任教師の名を冠した「◯◯学級」という呼び方があまり好きではありません。そして、教科担当制の中学生以降は、「たかが週2、3回の教科担当者の授業がそう大きな影響を持つことは少ない」と思っていました。しかし、甲斐利恵子先生の授業は、確かに「甲斐利恵子教室」と呼びたくなります。そのくらいの影響力を持っているからでした。
決して集団を自分から引っ張っていく先生ではないのですが、温かな雰囲気、ユーモア、一人一人の生徒の受容、そして言葉の力を伸ばすのだという厳しい姿勢。それは、甲斐先生のどの授業にも共通して見られ、書写の授業でもスタイルが崩れることはありませんでした。そして、他のクラスでは荒れている評判の生徒でも、甲斐先生の授業でだけは落ち着いて授業が受けられる。そういう場面もたくさんあったのです。
授業の柱となるカンファランス
甲斐先生のスタイルを支えているのは一体何か。最も目につくのは、一斉授業の形式の中での個別のカンファランスです。どの授業でも、共通教材について個別に選択する余地がある課題を設定し、個々にカンファランスをする時間を取る。この「選択」と「個別のカンファランス」はアトウェルのライティング・ワークショップにも通じる、甲斐先生の基本スタイルをなすものでしょう。ほぼ毎回、生徒の作品を回収して手控えを作成するのですから大変な負担だと思いますが、この個別カンファランスの中で、先生は個別の生徒とのやりとりを深め、その力を把握し、そして伸ばしていく。
圧倒的なエピソード再現力
驚かされるのは、このカンファランスを重ねた先に、甲斐先生が圧倒的なエピソードの再現力を持っていること。折に触れて一人一人の生徒に「中1の頃のあなたは…」のように語りかけます。授業後の検討の場でも、一人一人の性格や過去のエピソード、時には沈黙の理由の違いに至るまで、事細かに記憶し、お話しされます。この圧倒的なエピソード再現力は、決して僕にはないもので、お話をうかがう度に驚嘆させられました。僕がカンファランスで生徒の情報を集めているのだとしたら、甲斐先生は、一人一人のストーリーを読んでいる。そのくらいの違いがあります。
生徒のストーリーの蓄積「学習記録」
甲斐教室でストーリーを蓄積するのは、先生だけではありません。生徒も毎回の学習の記録を蓄積して、それを前期と後期の2回、読み直して冊子にまとめていきます。この学習記録は大村はまの学習記録にとてもよく似ており、僕が使っている大福帳とは決定的に異なる厚みを持っていました。教室後方に積まれている生徒さんの学習記録を読むと、こうして学びが書かれ、蓄積され、振り返られることで、生徒の中で学習が一つのストーリーになっていくことを、ずっしりとした手ごたえとともに感じます。
親密な関係の網の目が作られる場所
甲斐利恵子先生の教室は、以上のような要素(選択の余地のある課題、個別カンファランス、学習記録…)を基本的な道具立てとして構成されていますが、それが甲斐先生のパーソナリティと結びついた時に、きっと高い効果を発揮するのでしょう。くるくると変わる、でも一貫して優しい表情。肩に手を置いたり、顔を寄せたりする距離感。随所に見られる(こう書いては失礼ですが)かわいらしい仕草。その多くは、言語で表されるものではありませんが、そういうもので生徒との親密な関係の網の目を作っている。
僕は、中学校以上の先生で、甲斐先生ほど、生徒たちが授業前や授業後に寄っていく先生を見たことがありません。たいていの先生には、「合うタイプの生徒」「合わないタイプの生徒」がいるものですが、甲斐先生は、生徒のタイプの違いに関わりなく、毎回、数名の生徒たちに囲まれています。これは、僕にはとても不思議な光景でした。
こういう生徒との関係性が教室を安心できる空間にしていく。そして、生徒同士のコメントも互いに親密なものにして、協同的に学ぶクラスの形成に繋がっていく。結局は、甲斐先生のお人柄や生徒との関係性が授業にも表れて、「甲斐利恵子教室」と呼びたくなる空間を作っているのでしょう。
「小学校の先生らしい」先生
同僚を始め、僕がこれまでに出会った優れた国語教師の多くは、まずは深い学術的知見や学問への敬意を持ち、ご本人も学術的な研究能力をお持ちの方々でした。そして、学問的知見を生徒たちにどう伝えるか、生徒と学問をどう繋げるかに情熱を注ぐタイプの先生が多かったように思います。
でも甲斐先生は、あくまで生徒の側から出発している。一人一人の生徒と向き合うことから始めて、彼らの言葉の力をどう鍛えるかという観点で授業を行い、授業の中で一人一人の生徒たちと話をすることを、本当に楽しみにしているようでした。それは、小学校の学級担任のようです。甲斐先生は、ある意味で「小学校の先生らしい中学校の先生」と言えるかもしれません。
こういうタイプの先生は、僕はこれまで出会ったことがありませんでした。僕が翻訳に加わったナンシー・アトウェルも、まずは文学への深い愛と理解があり、優れた文学作品の特質を一人一人の子供達にどう伝えるかという意識が強いように感じます。
今のタイミングで見学できて幸運でした
今の僕は、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップを、どうにか形だけは運営することができるようになって、「ワークショップの枠組みの中で、一人一人の生徒をどう見とって、その力を伸ばしていくか」に本気で取り組みたいタイミングにあります。この時期に甲斐先生の授業を長期にわたって見学できたことは、大変な幸運でした。
甲斐先生の単元学習は、アトウェルのライティング・ワークショップとは多少の違いはあれ、確かに一人一人の生徒を見とり、その力を伸ばしていく授業。おそらく日本でも希少なそういう授業を見られたことは、本当にありがたいことでした。この経験をきちんと生かして、さらに次に繋げて、ご恩返ししないといけません。
アトウェルの授業がアトウェルにしか作れないように、甲斐先生の教室は甲斐先生にしか作れないものでしょう。今回の見学は、授業と授業者が不可分であることを、改めて思い知る機会でもありました。自分は何者で、何がしたいのか、何ができるのか。アトウェルでも甲斐先生でもない自分は、でもこのお二人の背中を遠くに見つつ、これからの授業でそれをまた問い直すことになりそうです。
甲斐利恵子先生、この上なく貴重な見学の機会をくださいまして、感謝しています。心からのお礼とともに、この一連の訪問記録を書き終えたいと思います。どうもありがとうございました。