いまの「自分」がわかる、授業を見てもらえるありがたさ

今週の木曜と金曜にかけて、「作家の時間」(ライティング・ワークショップ)「読書家の時間」(リーディング・ワークショップ)を学校で実践している先生方が風越に来てくださった。大阪と横浜から1校づつ。風越学園の全ての学年の国語の授業をご覧いただき、木曜の放課後には風越も入れて3校のスタッフを交えて情報交換会も開催した。東京にいた頃はわりとひんぱんに授業見学を受け入れていたけど、基本的に僕の授業に興味を持ってくださった個人の受け入れであり、こうやって学校単位で「作家の時間」「読書家の時間」を実践する学校の先生たちが3校も集まるのは記憶にない。これだけで勇気づけられる話だ。

写真は、11月上旬に登った浅間山から見えた景色。黒斑山、蛇骨岳、仙人岳などの、浅間山の外輪山の雄大な景色が一望できました!

同じ実践をしている者同士の会話

同じ実践をしているからこそ、その後の教科会でも「こちらが読ませたいものや経験してほしい方法を子どもがとらない場合にどうするか」「子どもたちが育っているという結果をどのようにして示すのか」など、同じ悩みを共有できる。

また、同じ実践とはいえ環境が違うので、気づくこともある。今回面白かったのは、自由すぎる低学年の子たちを見ての、次のような指摘だ。

普通の学校で「作家の時間」「読書家の時間」をやると、それだけでアドバンテージがある。「決められた席に座って先生の指示通りに黒板を移したり、問題を解いたり、説明を聞いたりする授業が大半の中で、「作家の時間」「読書家の時間」は生徒にとってかなりリラックスしたものに感じられ、だからこそ、好きになってくれるからだ。
しかし、色々な活動が子どもたち次第の風越には、そのアドバンテージがない。逆に、空間的にも行動的にも自由に決められる範囲が多い中で、教師がある程度「力」を使って何かを教え、それを子どもたちが選び取っていくようにしなくてはならない。

言われてなるほど、と思う。僕はよく「権力」という言い方をするが、空間も開放的で行動も比較的自由にできる風越においては、教師の持つ「権力」をどう使うかがとても重要なのだろう。ちょうど昨日書いた「制限」の話も、教師の権力の発露の一形態である。

僕の発言は「不自然」

また、今回の見学では、僕自身のふるまいについても考えさせられた。ある方が、「あすこまさんは、生徒のネガティブ発言に対してかなり敏感だった。「取り扱い注意!」という感じ」と述べられていた。

たしかに、いまの受け持ち生徒には、何かと「えー、やだ」と文句を言ったり、「つまんない」と言ったり、他の子にもきつくあたる感じの子が多い。思ったことを素直に口に出す良さとも言えるが、特に他の子の発言に対するネガティブ発言は場を冷やすので、僕はそういう発言に対してちょっと敏感だ。「不満は提案の形に変えて言ってみよう」と言うし、こちらもムカっとすると「文句を言うだけのお客さんって、楽でいい身分だね」と皮肉を言うときもある。

この日も子どもとの間に「不満があるなら提案してごらん」と伝える場面があったのだけど、見学者の方は「イノセンスな子どもの発言に責任を求めるのは、正しいかもしれないけど、不自然に感じた。嫌な気持ちになるからそういう発言は言っちゃダメ、のほうがよほど自然ではないか」という趣旨のフィードバックをいただいた。「風越学園が目指しているのは、自然に子どもが学んでいく場だ、と自分が勝手にイメージしているから、引っかかったのかもしれない」との留保つきで。

なるほど、僕には「子どもにお客さんでいてほしくない。自分も一緒に場を作っている一人であることを忘れないでほしい」という気持ちや、文句ばかり言う子に「いいかげんにしてよ」という気持ちがあるので、つい正論で口をふさぎたくなっているのかもしれない。どう声がけすればいいのだろう、と考えさせられた。でも、人間として自然かどうか、というのは、たしかに大事かも。

見学する人に「自分」を教えてもらう

こういうふうに、見学者の存在がありがたいのは、「外から見た自分」を教えてくれるからだ。もちろん初対面の人は良いことしか言わないものだけど、それでも、自分の傾向性はつかめる。

金曜日のお昼休みには、見学者の人とこんな会話があった。見学する時に授業者の発言やワークシートに注目して、自分の授業にどう取り入れようか考えながら見る人と、子ども、とりわけ授業の枠にうまく入れないような子どもに注目して、その子の中で何が起きているのか見ようとする人がいる、という話になった。そこで僕は、「僕はどっちのタイプに見えますか?」と聞いてみたのだ。

相手の人は少し戸惑ったあとでこう言った。

「基本的には前者で、でも今は後者になることを楽しんでいるように見えます」

言われてみると、これは本当にそうだなと思う。確かに僕は基本的には前者のタイプだ。でも、いま後者の視点を取り入れようとしていて、それを「楽しんでいる」と言ってもらえたのはありがたかった。こういう一言が、僕を前に進めてくれる。

また、筑駒時代からつきあいのある筑波大学の勝田先生は、僕の授業スタイルの筑駒時代との違いを指摘してくれる。

  • 以前は、一斉授業スタイルの授業もあったせいか、読書家の時間や作家の時間では「楽しさ」を強調していたが、いまは、読書家の時間や作家の時間の枠組みの中で「力をつける」ことを大事にしているように見える。
  • 以前よりもミニレッスンやカンファランスが緊密に関連づいているように見える。
  • 以前よりも子どもとの距離がずっと近い。
  • 以前よりも子どもに介入している。前は、嫌がる子は放っておくくらいの距離感だった。
  • 以前は、「自分が生徒たちの力をあげていく」個別カンファランスを基本にしていたが、今はカンファランスの中で子供同士をつなげていく様子が頻繁に見られる。

これらの変化は、高校生と小学生という、教える相手の変化による違いも大きい。でも、変化しているということは、適応しつつあるということ。自分では気づきにくい変化を言語化してくれる存在はありがたいものだ。

先週は、こういう見学者の方の存在に勇気づけられた週だった。また、今週からも頑張っていこう。

 

この記事のシェアはこちらからどうぞ!