11月も半ばとなり、先月から取り組んでいた「説明と描写」ユニットがほぼ終了した。 実は今年の受け持ち学年、一学期の間は「子どもたちが力を発揮できている、成長している」実感を感じにくかったのだけど、9月の「俳人の時間」、10月の「説明と描写」ユニットと続けて、だんだんと手応えを得られるようになってきた。もちろん個々の子には色々あるのだけど、その上で、だ。今日はそのことについて書いてみる。関連エントリは以下です。
目次
2つの制限をかけた「説明と描写」ユニット
この「説明と描写」ユニットでは、僕は作家の時間の課題に2つの制限をかけた。
- 自分の作品の中に、必ず「描写」をする場面を入れること
- 作家ノートを必ず使い、OKをもらってからPCでの執筆にとりかかること
この2つの制限、短期的には、僕はどちらもよかったと思っている。
ジャンルではなく機能で制限をかける
1つ目については、ふだんは「今回は物語」「今回はエッセイ」とジャンルで制限をかけているところを、「ジャンルは自由、そのかわりに必ず描写を使う」という制限に変えたのだ。これは効果があった。今となっては自分でも「なんでこういう制限のかけ方に気づかなかったんだろう」と不思議に思うほど。10月の「説明と描写」ユニット期間は、作家の時間でも読書家の時間でも、カンファランスで「説明と描写」について聞くことが多くなったので、その繰り返し効果もあるのだろう。『感情表現類語辞典』や『場面設定類語辞典』を紹介できたこともあり、多くの子が描写を意識して、文章の質がぐっと高まった、という手応えがある。
また、作品の振り返りに「フィクションじゃなきゃダメ、ノンフィクションじゃなきゃダメというしばりがなかったので、とても書きやすかった」という感想を書いた子もいて、ジャンルよりも今回の制限のほうが「書きやすい」と感じる子もいることにも気づいた。
作家ノートを必ず使う制限をかける
2つめの「作家ノートを必ず使う」制限については、いっこうにノートを使わずいきなりパソコンで書き始める子たち向けの、やむない制限という意味合いが強い。本当はこんな制限かけなくても…という思いもあるが、いくら、ミニレッスンで作家ノートでできることを説明し、共有の時間で他の子の実例を示してその良さを伝えても、ノートを使わない子は本当に使わない。単純に、ノートを持ってくるのが面倒くさいのだ。本人は「頭の中で組みたてられるから」「いきなりPCで書くのが向く」と言うのだけど、ノートを試しもしないのにどうしてわかるんだろうと思う。PCを開いては校内SNSや関係のないサイトに没頭…という光景もしばしば見られた。ノートを使うように強く促しても「作家ノート忘れました」が連日続いて、これ以上進みようがなかったのだ。
で、「作家ノートをみんなに一度はちゃんと使ってみてほしいけど、どうすればいいかな?」と相談の上、出てきた選択肢で多数決をとって、「作家ノートのメモ書きをスタッフに見せて、OKをもらったらPCに移る」案になった。これは、ある意味では「OKをもらうための作家ノートを書く」本末転倒にもなりかねない、危険な判断でもある。
でもこの制限も、少なくとも一ヶ月時点での判断としては、やってよかった。乱雑に「汚く」メモ書きできる、「試行錯誤の場」「アイディアを置いておく場」としてのノートの存在は、やはり大きい。絵を描いたり、表をつくったりと、ノートを色々に工夫して自分の作品のアイディアを組み立てていく様子は、見ていて面白かった。また、PC画面を開きながらノートを見られるのも、単純に表示領域が広くなるという意味でも良い。これまでいっこうにノートを使わなかった子たちの中にも、今回の制限を経て、振り返りで「作家ノートを初めて使ってみて、けっこう便利だった」という感想を書く子が複数見られた。
さらに、カンファランスする側としても、作家ノートがあるととてもやりやすい。子どものアイディアをスクロールしなくても一覧できるし、こちらがシャーペン一つ持ってノートに書き込みをするのも容易。困っている子にはすぐにシャーペンで一緒に書いて考えたり、が簡単にできる。作家ノートって、教師と生徒のインタラクションを促進するメディアでもあるのだ。それが子どもの文章の質向上にもつながってもいる。
だから、たとえ「大人は実際にはいきなりPCで書いている」としても、これから書き手として伸びていく子どもたち、教室で大人とインタラクションをしながら書いていく子たちには、作家ノートは絶対にあったほうが良い。今回、それをあらためて実感した。本当は大人だって使ったほうが良いのだと思う(僕自身、メモ書き用に測量野帳を作家ノートとして使っている)
「力を発揮するための制限」ってどういうもの?
日本で「作家の時間(ライティング・ワークショップ)」というと、「書きたいことを、書きたいように書く」という「自由さ」が強調されることもある。実際、下記の本ではその面が強調されがちだ。
でも、少なくとも僕の「作家の時間」はそうではない。自由に、楽しく、自己選択で、だけでは、僕自身が物足りなく感じる。これはまあ、教師としてのあり方や教育観の問題で、現状の僕は、やはり「その子の力を発揮させたい、さらに伸ばしたい」教師なのだろう。その子が個性を表現できていることはとても大事だけど、「それさえできていれば力がつくとかつかないとかどうでもいい」とまでは、やはり思えないのだ。
というわけで、「どういう制限であれば書きやすくなるのか、子ども自身もまだ気づいてない、その子の力が発揮されるのか」に、いま、とても関心がある。今回の「ジャンルではなく機能で制限をかける」は、いいヒントだったように思うが、この問題は、これからも実践を通じて考えていきたい。