小学生にどこまで求める?俳句創作の授業ふりかえり

忙しくて少し時間がたってしまったのだけど、今日のエントリは9月にやった俳句創作の授業の振り返り。勉強仲間の助けも借りて、忙しい中でそこそこ準備して臨んだこの授業、手応えもあったけど、考えてしまうこともあった。最後に来るのは、小学生相手にどこまでのクオリティを求めるのが良いんだろう? という問い。根が中高(おそらく高校寄り)現代文教員なもので、ついつい教えたくなっちゃうんだよなあ…。

写真はこの夏に2回登った日本百名山の一つ、蓼科山。一度目はガスってて何も見えなかっただけに、リベンジ登頂のこの見晴らしの良さは嬉しかったなあ….

目次

俳句創作の授業、何を目指す?

実は僕も俳句創作の授業をするのは初めて。前の学校では同僚に俳諧研究者がいて連句の授業などもされていたので、それに甘えて自分が勉強不足だったんですよね…。今回、授業をつくるにあたって最初に思ったのは、「ひがんばな真っ赤に咲いてきれいだな」式の575作文では終わらせたくないということ。これは詩の授業でも同じだけど、ただの作文であれば、わざわざ俳句として扱う意味がない。56年生なりに「季語を入れた575作文」ではなくて「俳句」に出会って欲しい気持ちがあった。なお、自分が予習に使った本は下記エントリに。今回のエントリと内容が重複するけど、まあ仕方ない

[読書]俳句創作の授業づくりのためのブックリスト

2021.09.11

具体的な方針は「取り合わせ」と「句会」

具体的な方針としては、まず「取り合わせ」の句を作ることに重点を置いた。俳句創作の実践としては、写生句の創作(実際に風景を見つめて俳句を書く。写真などとあわせる例も多数)も多いように思うが、写生句で平凡な575作文にならないのはとても難しい。自分で俳句を作ってもそう思う。だったら強引に詩的飛躍を生み出す「取り合わせ」に焦点をしぼって扱おう。何より、小学生相手の「取り合わせ」の指導方法には、「たのしいな俳句」を始めとする、夏井いつきさんの膨大な蓄積がある。今回、夏井さんの本にはものすごく助けられた。

また、同じく決めていたのは句会をすること。これは千野帽子さんの『俳句いきなり入門』で知った「作らない句会」というアイディアが素晴らしいなと思ったからだ。

通常の句会はもちろん自分で作った句を出す。しかし、千野さんの「作らない句会」は、自分ではなく誰か他の人の作品で句会をするのである。句会の主役は俳句の書き手ではなく読み手である。面白い句が偶然生まれることはあっても、面白い読みが偶然生まれることはない。たった十七音の俳句の世界を豊かにするのは、読み手の力。僕はもともとそう考えて、俳句を読むプロセスにこそ力を入れるべきだと思っていたので、「作らない句会」はそのことを示すとてもいい試みだと考えた。

大切にしたのは、小学生の秀句を集めること

準備で大切にしたのは、小学生の秀句を集めること。去年、67年生相手に「歌人の時間」をやったときにも感じたけど(下記エントリ)、歴史的評価の定まった作品よりも身近な年齢の書き手の作品のほうが、こどもたちにはずっと響くし、参考にもなる。

短歌と写真を合わせて作品を作る「歌人の時間」のふりかえり

2020.11.23

現代文教員としては、歴史的に評価の定まった名作に出会わせたい思いもある。でも、ここは子どもの作品を優先的に集めることに決断。俳句甲子園や各種コンクールの入選作品をググったほか、下記の本を中心的に使って、たくさん集めた(授業の狙いが「取り合わせの句をつくる」だったので、集めたのも取り合わせの句が多い)。

集めた作品は、それで「作らない句会」をした他、授業中にはいつもスライドショーで小学生の秀句を流していた。こうやって自分たちが自分で作品を作る前に、モデルとなる色々な作品に出会うことを、最近の僕はとても大事にしている。これはアトウェルのジャンル学習の影響だろう。

「取り合わせ」を教えるために

授業では、こうやって集めた句を「取り合わせ」の句の例として示すほかに、ミニレッスンとして、白と黄色の短冊をつかって、色々と言葉を組み合わせるゲームもやってみた。まず黄色の細長い短冊には「季語と関係のない12音の言葉・文の一部」を書き、次に白い短めの短冊には、季語を含む5音の言葉を書いてもらう。ラッキーディップで詩をつくるように、黄色と白の短冊を色々と組み合わせて、面白い言葉のつながりができないか探してもらうのだ。

強制と偶然の力で詩をつくる「ラッキーディップ」が面白い。

2020.07.26

この時、子どもたちが季語を含む5音の言葉が見つけやすいように、「音数別の季語一覧集」も作って配布した。これも夏井いつきさんの本や神野紗希さんの下記の本に載っていたこと。こういう先達には本当に助けられます。

句会の良いところ、フォローがいるところ

この授業の子どもから見たハイライトはやはり句会。小学生の秀句をつかった「作らない句会」で手順を確認し、取り合わせの句の作り方を教えてから俳句をつくり、本番を迎えた。グーグルフォームを使ってスプレッドシートに集計して上位5名を発表、それを選んだ人に「どういう句だと思うか」「この句のどこが素晴らしいか」を聞いていく略式句会だったけど、やっぱりもりあがった。

句会のいいところは、なんといってもこの盛り上がりだろう。みんな「選ばれるかな…どうかな…」とドキドキするみたい。上位5作品に漏れた子の中にも、自分の句に何票入ったのか知りたがる子がとても多かった。また、たった575ということもあり、ふだんは作文に苦手意識を持っている子が上位5作品に選ばれることがけっこうある。これはその子にとっては嬉しいだろうなあ。

一方、「取り合わせ」を授業で強調したところで、やはり子どもには理解は難しいのだな、と思う場面も多かったのも事実。句会でも、「わかりやすい、共感しやすい俳句」、つまり見方を変えれば月並な俳句に多くの票が集まる傾向があった。これ自体は、別に俳句の授業は俳人養成のためじゃないので、まあ良いと思う。実際「月並」までたどり着いてる(=典型を理解している)だけでたいしたものだ。ただ、せっかくの面白い句が埋もれるのはもったいない。句会の上位作品とは別に「あすこま特別賞」を設けて、子供同士の人気投票では埋もれてしまう作品に光をあてる必要はあった。

ちなみに、もちろん僕も匿名で自分の句を投句したのだけど、2票くらいしか入りませんでしたよ…。

相互批評を書く用紙は、甲斐先生方式で

句会が終わったら、最後の授業では相互批評。くじでコメントを書く作品を決めて、その作品の批評を書く。「批評家はトレジャーハンター、作品の中の宝物を自分の言葉の力で発掘して、書き手にプレゼントするんだよ」とはいつも言っているけど、今回の批評文はなかなか素敵なものが多かった。その理由はシンプルに、批評を書く用紙に、こんな「書く文章の例」をつけたことだ(いつものように、僕の書いたサンプルも添付した)。

このフォーマット、ご存知のかたには一目瞭然。大村はまの流れを組む甲斐利恵子先生方式です。実は僕が俳句の授業をやっているタイミングで、甲斐先生はちょうど78年生で短歌の授業をやってて、そこでお話を聞いているうちに、Googleドキュメントではなくこの用紙で書いてもらうことにした。批評で使う言葉や観点を示すことはこれまでもやっていたけど、結果として、同じ原稿用紙に例があるわかりやすさが質の向上に直結したと感じる。今回、この批評文がけっこうよかったので、授業予定を一回伸ばして「批評文を批評する」授業をやってしまったほど。ちょっとした工夫、大事。にしても、同じ職場に偉大な先達がいるありがたさよ…。

小学生にどこまで求める?

さて、こんな感じで「脱・575作文」を目指して「取り合わせ」を教え、書くこと以上に批評することに力を入れた俳句創作の授業。やりおえて感じるのは「小学生にどこまで求めると良いのかな」という疑問だ。「取り合わせ」の飛躍が生む面白さって、「共感・わかりやすさ」とは別の評価軸なので、わかる子にはわかるけど、わからない子には全くわからない。もちろん「それっぽい句」を作るのは写生句よりも「取り合わせ」のほうが指導しやすいのだけど、それが全く理解できない子に出会うと、小学生に「取り合わせ」を教えることにどこまでの意味があるのかなあ…と思ってしまったのも事実だ。

小学校における詩歌(短歌・俳句・自由詩)創作って、「短い分量で書ける、かんたん作文フォーマット」として扱われる傾向が強く、俳句も「季語をいれた575作文」になりがちだ。最初に書いたとおり、個人的には俳句を「季語を入れて575であればなんでもいいんだよ」と教えるのは嫌なのだけど、実際、それくらいがちょうどいい子もいる。また、僕自身は、詩歌には「素直な内面の吐露」よりも「言葉の組み合わせから生まれる世界の面白さ」を求める傾向があるのだけど、それが合う子もいれば、難しい子もいる。自分の「こうしたい」「伝えたい」思いにも率直でありたい。エゴといえばエゴだが、そうでないと、授業者が自分でいる意味が感じられなくなってしまうからだ。一方で、もちろん、子どもを置き去りにしちゃいけないとも思う。このへんはジレンマですなあ。もうちょっとみんなの年齢が高ければ僕の求める水準と子どもたちの発達段階があってくるんだろうけど、小学生にどこまで求めていいのか問題は、小学生メインの風越で教える以上は常につきまとってくる。今後も試行錯誤が続くんだろうなあ。

 

 

 

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