教育現場で詩歌を書くことの(よこしまな)効果について

僕は「評価の基準は多いほうがいい」(僕だけの評価基準で文章へのコメントがなされないほうがいい)主義の人なので、子どもたちの作品を校外のコンクールに応募することがある。夏休み前の授業で子どもたちが書いた俳句を地域の某コンクールに出したら、今週、なんと20人以上(総数の半分以上)の作品が一次予選を通過するという連絡があった。今日はそれについての短いエントリ。

いま、僕がメイン担当であるテーマプロジェクト「森の再発見プロジェクト」で、アウトプットとして森の写真絵本を作りはじめてます。で、先週は雨の日にそのモデル作品づくりのために風越の森に入っていまして…。写真はその時に撮った一枚。

 

一次選考通過作品に見る、学力の逆転現象

このお知らせ、一次予選であって入選ではないし、応募作品のうちどれだけが一次予選を通過したのかも不明なのだが、それでも半数以上の子が一次予選通過のお知らせをもらったことになる。予想外に多かったので、喜んでいた子たちも多かったが、むしろ、通らなかった半数以下の子たちがやや残念そうだった(これはまあ、そうだろう)。ここで個人的に興味深かったのは、一次予選通過・落選した子たちに、少なくとも僕の目から見て学力的な偏りがあまりなかったことだ。よくできる子でも落選するし、学力的にはとても厳しい子が一次予選を通過したりする

こうした「逆転現象」がおきやすいのが、詩歌、特に短詩型文学の良いところだな、とあらためて感じる。それは、いわゆる文章の型から外れるところにこれらの面白さがあることや、読み手の実力次第で、いくらでも「読めて」しまうことが大きな理由だろう。物語や論説文のような散文では、こうした現象はめったに起きない。上手い子は上手いし、そうでない子はそうでないままだ。しかし、詩歌では違う。特に、ラッキーディップや今回の俳句の作り方(下記エントリ参照)のように、自分の外にある言葉を手がかりにして組み立てる時、その傾向は顕著だ。

導入は俳句づくりのゲームから!「取り合わせ」に再挑戦の今年の俳句の授業

2022.08.11

優劣を撹拌する装置としての詩歌の創作

教室内の優劣が関係なくなることは、教育現場で詩歌を書くことの大きなメリットだ。書くことが楽しいと思ってもらうには、優劣関係が固定化せず、多くの子が良さを認めてもらえることは大事な要素だと思う。だから、よこしまな考え方かもしれないが、優劣を撹拌する装置としての詩歌創作の役割をもっと認識して、授業でも扱っていきたいなと思った。

いずれ短歌の授業をやろうかな…

4月に自由詩、7月に俳句ときたので、いずれ短歌の授業をやろうかなあ、と安直に考えている。その時はどうしよう。過去ログを検索したら、一昨年は写真とあわせて「歌人の時間」をやったのだった。筑駒時代によくやった穴埋め短歌もいいな。りんちゃんにも聞いてみよう。どんな学力の子でも楽しい学びのある時間になるように、頭の片隅で考え始めていたい。

短歌と写真を合わせて作品を作る「歌人の時間」のふりかえり

2020.11.23

[読書]短歌創作の授業づくりのためのブックリスト

2020.11.15

自分のやり方はこれ。お薦めです、穴埋め短歌。

2015.05.03

 

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