前回のエントリで参考文献を書いた短歌+写真の授業。今回のエントリは、その授業自体のふりかえり。10月下旬から11月中旬にかけて、短歌と写真を合わせた作品を作る授業をした。
目次
口語短歌を中心に….
僕が決めていたのは、現代の口語短歌を中心にすること。小中学校の教科書に載っている短歌は文語のものも少なくないのだけど、今回は、生徒が短歌に親しみ自分たちの感覚で作品作りをすることを目的にしたので、口語短歌をたくさん紹介することから授業を始めた。ここから文語短歌や古典和歌にも伸びていくといいな。授業の最初には僕が選んだ短歌50首を配布して、その人気投票から。やっぱりわかりやすく共感を集める短歌が人気で、加藤千恵や平岡あみの名前が上位にくる中、でも1位になったのは意外なことに(?)この作品だった。これは、ちょっと面白かったところ。
うつくしく去る旋律を書き留めた楽譜は北の星図のように(佐藤りえ)
3コース制で短歌に写真をつける
また、今回の創作は、3つのコースから一つを選ぶコース制。
- Aコース:既存の短歌に、自分で撮った写真をつける。
- Bコース:既存の短歌の一部を自分で作り変えたうえで、自分で撮った写真をつける。
- Cコース:自分で短歌を作り、自分で撮った写真をつける。
こんな風に短歌を自作する程度に応じて3コースから選べるのだけど、最終的には、42人の生徒中、Aコースが14人、Bコースが4人、Cコースが24人という選択結果だった。このコース制にしたのは、自作に限ると厳しい子がいるだろうな、という予測によるもの。だから、当初のこちらの意図としては、書くのが難しい子でも参加できる「救済策」のつもりだった。
ただ、結果としてAコースは「救済策」以上の価値があったと思う。というのも、今回、短歌につける写真には、「短歌の内容をそのまま反映してはいないが、短歌と共通する感情がある」写真を選ぶ、という縛りがあった。例えば、仮にAコースで「自転車のサドルを高く上げるのが夏を迎える準備のすべて」(穂村弘)を選んだら、自転車が写っているような写真を選んではダメということ。短歌に出てくる事物と直接は関係しないけど、でも短歌と共通する感情が流れる写真を選ぶ。それがルール。
「直接関係しないけど、共通する感情が流れる写真」を選ばないといけないので、そこには自ずと読み手の「解釈」が入ってくる。このルールが子供達にとって短歌を読むための良い制約にもなったし、適当に手を抜くことも許さないハードルにもなったようだ。作品を鑑賞する側にも、「この写真と短歌はどう関係しているんだろう?」と考える楽しみも生じる。だから、Aコースを選んだ子たちも熱心に短歌作品を選んでいたし、その解釈を考えて、それに合う写真を撮ろうとしていた。見ていて、「最初は全員がAコースを体験してもよかったかな?」とも思ったほどで、やはり制約が創造性を刺激するのってあるんですねえ…。ちなみに、Aコースの中で一番人気があったのは、加藤千恵の写真歌集『放課後』でした。これはまあ予想通り。
BやCコースを選んだ子も、とにかく最初は図書館の一角に集められた短歌作品を読み込んで好きな短歌をメモする人たちが多くて、もちろんそう働きかけた結果でもあるけど、これは良い光景だなと思った。31文字なんて、手を抜いて作ろうとすればあっという間なのだ。真剣に良いものを作ろうとしていたことの表れだと思う。
ふりかえりを書くことが柱
また、今回の授業は、作品そのものと同じくらい、ふりかえりを書かせるのに力を入れた。Aコースを選んだ子には、なぜその短歌にしたのか、その短歌の解釈はどういうものか、なぜこの写真にしたのか、他に候補だった写真は何か。BやCコースを選んだ子には、作歌の過程で出てきた他の表現の候補なども含めて、迷ったところを逐一記録するように求めた。生徒からするとけっこう面倒だっただろうなあと思う。さっき「書かせる」と書いたけど、まさにそんな感じ。分量が足りない子には再提出を求めたし…。これは批判もありそうだよね。生徒の側にはそこまで書く動機はないし、そもそも作歌の過程や自作短歌の解釈を書くなんて野暮ですからね。
ただ、個人的には、特に詩歌では、作品ごとのプロセスのふりかえりや自註自解は大事だなと考えている。こちらが作品にコメントを書くときに読めるという実用的な理由もあるけれど、もともと僕たちは詩人や歌人を育てているのではないのだ。もちろん詩や短歌を好きになってくれれば嬉しいけど、国語教育としての目的は短歌の創作という言語体験を通じて、何かを学びとることにある。だから、作品の自己解釈を通じて改めて自分の読みを確定させたり、プロセスのふりかえりを通じて自分の言葉の選択について自覚的になってもらったりする機会は、国語の授業ではとても重要だと思う。授業でやっているのは短歌を詠むことそのものではない。短歌を詠むというフォーマットを、国語教育の目的に使わせてもらっているのだ。
迷ったのはカンファランス
授業をしながら迷ったのはカンファランス。特に推敲の過程における助言だった。「かなしいかなしいと繰り返しても読み手はかなしくならない」という詩人・井坂洋子の言葉を引用したり、俵万智や佐藤弓生の推敲の過程を紹介したりしながら、少なくとも形容詞そのままの表現は避けるようにカンファランスしてきた。でもこちらも素人なので、このカンファランスが妥当なのかは自信がないよね。10月末の全国大学国語教育学会公開講座「詩の書き方は教えられるか」で、児玉忠先生が「教師は第二の作者」と指摘していたけど、良くも悪くも、そういう影響力の強さを感じる場面もあった。自分がその歌の核になる表現を提案して、最後の作品鑑賞会で「その表現がよかった」という付箋をたくさんもらった子にとって、この授業はどんな時間だったんだろう、ということを今も考えている。書きエントリではカンファランスの参考にした本を載せたけど、実際には読んだだけで、自分が十分に活かせた感じはあまりないかも…。
大変なのはトレジャーハント
また、大変だったのはトレジャーハント(宝探し。つまり、その作品の良いところを見つけること)。いかに31音の作品の魅力を見つけるか。ある程度の長さのある散文なら、どこかに「よさ」を見つけることはできるけど、たった31文字なので、こちらの読み手としての力量が問われる感じがした。その子が苦労している点はもちろん、本人は無意識だけどここが良かったという点も伝えたいと思う。カンファランスやトレジャーハントの打率を高めるには、要するに僕がたくさん短歌や短歌に関する本を読む(+詠む)経験を積むしかないのだろうなあ。そうして、「良さ」を見つける視点を生徒にも譲り渡していけたら。
もっと短歌の良さを見つける「眼」を
全体として振り返ると、楽しい授業だったな。短歌と写真という組み合わせは素敵だった。出来上がった作品の鑑賞会には、下の学年の子も来てくれたし、たくさんのコメントが載った付箋がびっしりと作品に貼られていて、生徒たちも嬉しそうだった。次にまたこの授業をするとしたら、どこをブラッシュアップしようかな。今回、写真を撮るときに写真クラブの子たちに簡単に撮り方のポイントをレクチャーしてもらったんだけど、もう少し本格的な写真ワークショップにしても良かったかも、とは思っている。そうすれば、生徒たちの熱ももっと上がったのじゃないかなあ。あとは、生徒がお互いの短歌の良さを見つける「眼」をもっと伸ばしたい。それにはどうしたらいいんだろう。やっぱりまずは自分が読むところからかなあ。