文章生成AIと書くことの教育をめぐって。全国大学国語教育学会信州大会より。

この週末は、全国大学国語教育学会・信州大会に参加している。初日の11/4(土)、午前中はChat-GPTをはじめとする生成AIを活用した実践が報告された「AI祭り」の第一会場へ。この学会で生成AIだけで一つの分科会ができるのも驚きだが、意欲的なチャレンジをする先生方の発表が多く、面白かった。「書く」ことに関する実践発表が多く、また午後のシンポジウムのテーマも「GIGAスクール時代における「書く」ことの学習指導をめぐって」だったので、今日は「生成AIをはじめとした技術革新と書くことの教育」について触れた1日。このエントリでは、特にどの発表と限定せずに、今日一日の経験を自分なりにまとめるために書いてみたい。

一応今の地元であるにもかかわらず、実は初めて足を踏み入れました、信州大学!それにしても大会名も「長野大会」じゃなくて「信州大会」なところ、いかにも長野って感じで好き。

目次

結局は自分の作文教育観が問われる一日

特に午前中の第一会場で思ったのは、生成AIがらみの話題は「あなたはいったい書くことの授業を通して何をしたいのか?」という問いを自分に向けてくるな、ということだ。報告された実践の中には、興味を惹かれるものも、正直全く琴線に響かないものものあった。しかし、後者の発表も、なぜそうなのかを考えると「あ、自分はこれを大事にしているからだな」とわかる、そういう意味で面白い発表揃いだった。

先日のオンライン公開講座でも述べたことと一部重なるが、僕には、

  • 書くことは、基本的に個人の営みである。
  • 個々の子どもたちに書き手としてのアイデンティティを持ってほしい
  • 書くことによる自己表現や発見の喜びを感じてほしい
  • 書く文章の質を高めることは、その次の段階ではないか

という思いがある(なぜそう思うのかは、結局は僕の生育歴も関わってくるだろう)。その思いと合致しないものやむしろマイナスに思える提案には、どうしてもモヤモヤしてしまう。「AIを対話の相手とすることで他者との関わりを避けることができることは、本当にメリットなのか」とか、「書き手のこれまでのストーリーを抜きに添削はできないのではないか」とかいう僕の疑問は、いずれもこうした僕の作文教育観によるものだ。したがって、僕の疑問やモヤモヤはそのまま「なぜお前はそう感じるのか」という形で自分に帰ってくる。

メンターとしての文章作成AIをめぐって

特に、僕が大きな可能性も感じる一方でモヤモヤも抱くのは、生成AIを文章産出のメンターとして使う活用法だ。今回、渡辺光輝さんがご自身の発表の中で、文章生成AIの活用法を次のように分類してくれた。

  1. 検索ツールとして
  2. 要約・書き換えなどの言語処理ツールとして
  3. 情報を整理・分析するツールとして
  4. アイディアを生成するツールとして
  5. メンター(相談・対話相手)として

このうち、生成AIの得意は④アイディア生成や⑤メンターだろう(検索はむしろ苦手だと渡辺さんもおっしゃっていた)。とりわけ、自分の文章を書く前に生成AIにアイディアを訪ねながら書く内容を吟味していったり、自分の文章をA Iに評価してもらったりするメンターとしての使い方は、カンファランスアプローチをとる僕としては大いに興味がある。

そして今回、メンターとしての生成AIについて、「他者と関わらなくても良いハードルの低さ」を複数の発表者の方が指摘していた。これは一面で、確かにその通りである。生成AIはこちらが何度質問をしても辛抱強く聞いてくれるし、嫌な顔一つしない。また、フィードバックも非常に紳士的で、攻撃的物言いも、むしろ文章を改悪する的外れのコメントも、人間より遥かに少ない。つまり、メンターとしては申し分ない。生成AIを対話の相手とすることで、クラス内の人間関係や他者からの評価を気にせず、文章の改善に取り組めるメリットは、確かにある。

でも、正直に書くと、このハードルの低さが何につながるのか懐疑的な自分もいる。確かに文章の質を高めるのには向くのだろうが、そもそも他者は、書き手にとって恐れも、同時に書く喜びももたらす存在である。そういう相反する感情の源泉としての他者に出会うことは、書くことの教育の大事な点ではないだろうか。そんな僕には、生成AIをメンターとして使うより前の段階で、生身の他者にしっかりと出会う経験の方が大事に思えてしまう。

ただ、こう感じるのも、結局は僕が生成AIをメンターとしてうまく使いこなしていないからなのかもしれない。今自分は4万字くらいの本を書いていて、時折お遊びでChat GPTに相談したり文章を評価してもらったりしている。ただ、そこでもその助言に本気で従おうとは思っていないどころか、「この指示に従っていたらつまらない文章になりそう」という気持ちすら抱く。人間の編集者の方のコメントの方によほど重きを置いて、その人の助言を受け入れるかそれとも断るかを考える自分がいる。利用者としての自分の感想が教育者としての自分のスタンスにも大いに影響していそうだ

今後、生成AIはあっという間に性能を向上させるだろうから、その提案が学校の教員のアドバイスよりもはるかに権威を帯びる未来も来るかもしれない。でも、そうなってはつまらない。書き手がその提案に盲目的に従うようになり、文章の書き方に唯一の正解があると勘違いし始めたら、書くことがただの作業になってしまうからだ。だから、多様な知識や人格を持つ複数のAIキャラクターが、それぞれ自分の好みや性格を反映させた助言をするといいなと思う。時に相反する助言をする複数のAIメンターの中から、書き手が葛藤しつつ、しっくりくるものを選べるといい。

文章産出手段としての「プロンプト入力」

生成AIがらみでいうと、文章産出手段としての「プロンプトを入力する」行為をどう受け止めるかという点も、まだ自分ではスッキリしていない。良い文章を産出するプロンプトを書けたら、それは文章を書けたことになるのだろうか。これは、文章を書くことを通じて自分で新しい世界を作り出したり発見したりする楽しさが、プロンプト起点の「作文」でどこまで持てるのかによるのかもしれない。これまでの自分の経験では、ChatGPTの性能に感心することはあっても、それが自分で文章を書く楽しさにはつながっていないので、どうしても懐疑的になる。

同様の疑問は、午後のシンポジウムの野中さんによる「たとえば、夏目漱石研究の膨大な論文データを生成AIにたくさん食わせれば、漱石に関する質の高い論文が産出されるはず」(大意)という発言にも感じた。これはまあ、できるできないで言えば、おそらく漱石の論文に限らず、小説でも随筆でも、それは早晩可能なはずだ。ただ、そうやって質の高い論文が産出されたとして、それで書き手(研究者)は楽しいのだろうか?

自分で問いを設定し、調査し、構成を考え、何度も行ったり来たりして論文を書く楽しさと苦しみのプロセスの大部分が、生成AIによる論文産出からは抜け落ちている。AIによる論文産出は、質の高い論文を素早く産むかもしれないが、書くプロセスの楽しさを書き手から奪い、結局は書くコミュニティの文化を痩せ細らせるのではないか。同様に、生成AIは売れる小説を短時間に量産するかもしれないが、売れるためではなく個人的楽しみとして書くアマチュアの書き手は、あまりそれを使いたがらないのではないか。

いや、こんな懸念はただの慣れの問題で、「かつてはご飯も釜で炊いたけど、今は炊飯器で炊くのが普通。それと同じ」なのだろうか。でも、個人的にはその比喩は妥当でないとも感じる。ご飯は結果としてのプロダクトの質(ご飯の美味しさ)が大事で、その限りで手を抜けるならその方がいい。しかし作文教育では、結果としての文章の良し悪しよりも、そのプロセスにおける試行錯誤やそれに伴う発見や感情の方にはるかに価値がある(と僕は考える立場である)。だから、そこを毀損する可能性のあるものには、どうしても慎重になってしまうのだ。

書くことの主体のあり方

午後のシンポジウムでは、書くことの「主体」をめぐるやりとりもあった。「今後の社会における「書く」ことを考えるにあたって、他者やテクノロジーから切り離された「個人」が行う営為として「書く」という活動を捉えることはリアリティがないのではないか」というフロアからの意見をもとにしたものだ。書くことがより共同的なものになり、「さまざまな人やモノとのハイブリッドを主体=エージェンシーとして捉える」という見方は、今後、確かに成り立ちうると思う。その時、例えば、僕が生成AIにプロンプトで指示して書かれた文章は、僕個人のというより、僕と生成AIの共作(コ・エージェンシーと呼ぶか、二つで一つの主体として捉えるかはあるにせよ)ということになる。シンポジウムのコーディネーター・野中さんも明らかにその立場から意見を述べていらした。

ただ、僕は書くことによる自己発見や自己表現を大事にしたい立場なので、そのような「書く」ありようが、いきなり学校教育に入ってくる(ということは現状は規約的にもあり得ないのだけど)ことには、やや抵抗がある。「ドアを閉じて書け、ドアを開けて書き直せ」というスティーヴン・キングの本に書かれていた言葉が僕はたいそう好きで、「ドアを閉じる」=他者から離れて一人で文章を書く時間が、大事に思えてしまうのだ。ただ、これには、小中学校時代に読み手がいない文章を書く習慣を持っていた個人的な経験によるところも大きいという自覚もあって、ただの慣れの問題なのだろうか、という気もするのだけれど。

テクノロジーが、書くことをどう変えるのか?

なんだか総じて古い人間の後ろ向き発言のようになってしまったけれど、生成AIをはじめとするテクノロジーの進化を止めることはできないし、それが社会で浸透すれば学校教育に入ってくるのも時間の問題だろう。問題は、それが文章を書くという営みや、文章教育をどう変えるかということだ。シンポジウムの質疑応答で、僕も次のような質問をしたのだけど、これは本当にみなさんの意見を聞いてみたい….どなたか、良かったらこの質問に答えてください(笑)

午前中の生成AIとの分科会とも関連する感想になってしまいますが、技術革新がもたらす「文章を書く」(文章で表現する)ことをめぐる環境の変化が、私たちに何をもたらすのかを改めて考えたいと思いました。

1)個に閉じたプライベートなものから、プロセスを可視化されるような営みへ。
2)さまざまなテクストを、ときに複数の人間で編集するような営みへ
3)音声やAIに書いてもらうプロンプトによる指示も含めた、多様な産出方法へ

このような変化が、「文章を書く」ことへの私たちの構えをどのように変えていくとお考えでしょうか。また、そうした変化の中で、書くことの教育が(これまで同様に/あるいは新たに?)担うべきコアの部分とは何でしょうか。漠然とした質問で恐縮ですが、どなたでも構いませんので、お考えをお聞かせいただけたらと思います。

余談:昔はこんなことを書いていました….

ところで、こんな僕でも、ずっと昔(2016年)には「テクノロジーと作文教育の未来」という文章を書いたことがある。

テクノロジーと作文教育の未来

2016.02.12

面白いことに、当時の筆致は今よりもずっと前向きで「時代の流れに乗っちゃうよ!」感がある。別に内容自体は今読んでも間違っているとは思わないのだけど、今はこんなにポジティブに書けないな。この変化は、作文教育の中で大事にしたい核がはっきりしてきたせいかもしれないし、あるいは単に歳をとって新しいものについていけなくなっただけかもしれない。いずれ、今日のエントリも「この時期の自分はこんなこと書いてたんだなー」と思って読み返す日が来るのでしょうか。はてさて。というわけで、未来の自分に届け!

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2 件のコメント

  • 学校国語で最低限必要なのは、創作活動ではなく、必要なことをより誤解ないよう伝えることではないだろうか。
    楽しさ、喜び、アイデンティティ、などは、それが充分達成できた次の段階ではないだろうか。
    指導要領の絵空事はエリートのもの。現実はそこからだと思う。

    • しかさんと僕は書くことの教育に関する立場が全く違うというようで….。そして、必要なことをより誤解ないように伝える伝達的機能のみを文章に求めるのであれば、それこそChat GPTでいいじゃんとは思いますね。