「教師の選んだ良い文章を読ませたい」という思いとどう向き合うか? アトウェルも感じる大きな矛盾

読書教育に関心のある国語教師(特に高校教師)にとって大きな「壁」の一つが、「自分の選んだ良い文章を読ませたい」という教師自身の思いだと思う。今日は、ナンシー・アトウェルがその思いとどう向き合ってきたかについて書いてみたい。

目次

「読書教育は大切だけど、時間がない」

昨年のこと、リーディング・ワークショップの授業を見学してくれたある人が、「読書教育は大切だと思うけど、扱うべき教材がたくさんあって時間がない」という率直な感想を吐露してくださったことがある。これはとても貴重な感想というべきだ。おそらく、その方の言いたかったことを率直な形で整理して書くと、

  • 授業では、読む価値のある文章を皆に読ませたい
  • 授業中に生徒に自由読書をさせると、価値のない本を読むことが多い
  • したがって、限られた授業時間を読書に割くほどの価値はない

ということになるのだと思う。

リーディング・ワークショップに関心のある僕が書くのも変だが、これは国語教師としてとてもまっとうな感想という気がする。おそらく、文学部出身で、文学に思い入れの強い人であればあるほど、その傾向が強いのではないだろうか。文学史上の価値のある名作に、あるいは現代に鋭く切り込んで生徒の視野を広げる素晴らしい評論に、生徒たちを出合わせたいのである。

アトウェルも抱いていた「価値ある文を教えたい」という思い

In the Middleをあらためて読むと、リーディング・ワークショップの大家であるナンシー・アトウェルでさえ、その思いを強く持っていたことがわかる。

1980年代にライティング・ワークショップを始めたアトウェルが、それでもリーディングの授業はしばらく教師が語る一斉授業形式のままだったことは興味深い。彼女自身、当時のことをこう振り返っている。

なにしろ、私の専門は文学なのです。文学に魅了されたからこそ、国語を専攻しようと決め、文学を教えるために国語の教師になりました。文学作品を選び、それを教えることは、私の教師としてのアイデンティティーの中心にあり、充実感のある部分でした。(p17)

思い切って週4日間のリーディングの授業のうち1コマを、生徒が個別に本を読むリーディング・ワークショップにあててからも、この逡巡はしばらく続く。彼女はこう振り返っている。

私が大好きな本、読む価値の高い作品集、長年かけてつくってきたレッスンプランが十分すぎるほどあり、とても、中学1・2年生の未熟な好みで選んだ本で、時間を無駄にする余裕などありません。(p18)

わかるよなあ、この思い…

おそらく、リーディング・ワークショップをやろうとしない先生たちの思いもこれと同じだろう。そして僕の中にも、この言葉にとっても共感する自分がいる。自分の好きな本や、「これこそ読ませたい」と思った文章を教材化して、それがヒットする時って嬉しい。そこにこそ、「教師のアイデンティティー」がある気もする。

リーディング・ワークショップをするということは、「いまの自分にとって読む価値がある本」を、(決して無制限にではないにせよ)生徒たちが自分自身で決めるのを認めることである。そうやって、自分なりの価値基準を持つ読者=自立した読み手を育てようとする。これは、「価値があるとは一体誰が決めるのか?」をあらためて問い直し、「価値ある文章と出会わせる楽しみ」を自分自身から奪ってしまうことでもある。

その上、自分から見たら「価値がある」とは到底思えないような本を、生徒が選ぶことだってある。もちろん教師はカンファランスを通じてさまざまな働きかけをするけれども、そういう状態を受け入れないといけないのだ。これはなかなかにつらい。「こんなことをするよりも、価値があると認められた文章を読んだ方が良いのでは?」という思いに、とらわれることもあるはずだ。

今も「矛盾を感じる」というアトウェル

アトウェルは、こうした自分自身の葛藤に自分を慣らすかのように、最初は週1日だけ導入したリーディング・ワークショップを、週2日、週3日と、徐々に増やしていった。そして、ついには全ての授業をリーディング・ワークショップ形式に変換し、約30年間もそのスタイルを保っている。そのアトウェルの次の述懐が面白い。

一人の国語教師としては、生徒たちが自分で本を選択することには、依然として大きな矛盾を感じています。しかし、読むことも書くことも、自分で選択できるからこそ、生徒は学びに夢中になれる、私はそうも感じています。(p22)

最終的には「生徒は自分で選択するからこそ学ぶのだ」と、リーディング・ワークショップにたどり着いた彼女だが、ここで同時に「依然として大きな矛盾を感じている」とも書いている。僕がアトウェルのことを好きなのは、こういうところ。

リーディング・ワークショップの代表的な実践者で、実際に非常に素晴らしい成果をあげているアトウェルでさえこうなのだ。「教師の選んだ良い文章と出会わせたい」という思いとどう向き合うか? 僕もまた、そうした問いを抱えながら、二学期にリーディング・ワークショップをやろうとしている。それは、リーディング・ワークショップというやり方を選択した教師の多くが抱かざるをえない、大きな疑問なのかもしれない。

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4 件のコメント

  • 教師が自分の好きな本を生徒に紹介するのは問題ないと思いますが、(どうしても文学などに偏るので)国語の教師だけがそうするのではなく、他の教科の教師もどんどんそうすればいいと思います。そうしない状況があるなら、その方がむしろ問題かも。国語の教師や司書さんはその点にこそ注意すべきかなと思います。
    また、理想を言えば、その教師が多数の生徒に好きな本を紹介するよりも、1対1で、「あなたにはこの本を」とひとりひとりを思い浮かべて、その子にふさわしい本を紹介(さらに理想的にはプレゼントする)といいと思います。まず、こうした関係ができているとすばらしいと思いますし、その本はきっと忘れられないプレゼントになることでしょう。私にはそういう経験があり、その本を今でも大切に持っています。
    また、もちろん生徒がいいなと思っている本を教師も読むべきだと思うし、特に、生徒間・仲間同士でおススメの本を読みあうのもすばらしいと思います。授業でもそういうことが容易にできると思います。私自身は好きだった女の子のおススメ本は真っ先に読んだし、嫌いだった男の子のそれも相手をよりよく知るために大変有効でした。(笑)

    • コメントありがとうございます。

      >1対1で、「あなたにはこの本を」とひとりひとりを思い浮かべて、その子にふさわしい本を紹介(さらに理想的にはプレゼントする)といい

      リーディング・ワークショップの教師が目指すところはまさにそこなのですが(リーディング・ワークショップに限らず、大村はまもやっていましたね)、生徒理解と本についての理解の双方が必要なんですよね。実際に自分がやっていることを思うと、なかなか険しい道のりです…。

  • あくまで理想なので、方向です。全員にということはかなわないでも、ひとりでもふたりでもできたらいいと思います。険しい道をなだらかに。