前回のエントリで自分の授業の反省をしたところで、違う「風景」をいつか見るべく、早速KAIさんが受け持つ小学2年生のクラスのライティング&リーディング・ワークショップを見学に行きました。仕事の都合で2時間だけだったのだけど、十分面白かったです。今日のはそのレポート。KAIさんの授業、自然でゆったりとしていて、いいなあと思いました。こんな教室に子どもを通わせたい!
目次
もぐらのさんぽ(KAIさんのブログ)
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朝の時間は各自で和気あいあいと
僕が教室に到着したのは8時5分。教室に入ると中央に横長のサークルベンチが6脚あって、その左右を机の島が囲んでいるというレイアウト。そこで、生徒が授業前の朝の時間を思い思いに過ごしている。オニミチやトランプをやっている子、VS(ボランティアサービス)のクイズや迷路を作っている子、本を読んでいる子…。この教室には、他にも色々な遊び道具や本があるのだ。
8時15分になると外遊びをしていた子も混じって、和気あいあいとした雰囲気。話しかけると色々と説明してくれて、きっと見学者慣れしてるんだろう。KAIさんは基本的には自分の机にいて、そこにやってくる子の相手をしている。みんな、各自でやりたいことをやっている朝ののんびりとした時間が、30分以上も続いた。
「しゃべらなくてもいい」サークルタイム
8時42分。一人の(日直の?)女の子が、「座ってー」と声をかけてベンチに座る。それを受けて、KAIさんや何人かの子が中央のベンチへ。でも、遊んでる子はまだまだ遊んでる。ベンチに座ったKAIさんは、特にみんなに声がけもせず、隣の子と話している。8時44分、同じ子が今度はやや声を張り上げて「座ってー!」。だらだらとした感じで他の子が遊び道具をしまって、だいたいみんながベンチに集まったところでチャイムが鳴った。8時45分、サークルタイムだ。
今日のお題は「二年生で一番印象に残ったこと」のようだ。声がけした女の子から初めて、人形のぬいぐるみ「ハッピーちゃん」を回しながら一言ずつしゃべっていく。この人形を持ってる人だけが話せる仕組み、哲学対話と同じだね。
「水泳で9級から6級に上がった」「運動会」「KAI先生に会ったこと」(←これはKAIさん嬉しいよね!)…などと言っていく中で、ある男の子が人形を受け取ってそのまま横の子へ。へー、パスもありなんだ。そう思って見守る。他にも何人かパスの子がいた。一周すると、KAIさんが初めてファシリテーターとしての一言を言う。「まだ言い足りない人?」
面白かったのはそのあと。まだ手を挙げる子が次々に出てくる。よく出てくるなーと思って見ていたら、周りの子につられたのか、最初にパスした男の子も手を挙げる。お、やるの?いいねー。なんとその男の子は最後にもう1回手をあげて発表してた。まだ挙手は続き、最終的には「いま手を挙げている人で最後」というKAIさんの指示もあって、サークルタイムは緩やかにフェードアウト。
ゆっくり始まり、ゆっくり終わる「読書家の時間」
授業の最初は読み聞かせ
この「フェードアウト」という言葉、KAIさんの授業の終わり方を表現するのにぴったりの言葉だと思う。少なくとも見学した2時間において、KAIさんの授業には「はっきりした始まり」や「はっきりした終わり」の合図がなかった。サークルタイムに引き続いて8時55分にはKAIさんが絵本「へちまのへーたろー」を読み聞かせるので、「あれ、じゃあここからリーディング・ワークショップ(読書家の時間)かな?」と思ったくらい。
絵本をみんなに見せ、ちょっと感想を挟んだり、この先の展開をみんなに聞いたりしながら進めるKAIさん。面白いことに、全員がKAIさんの前に集まってるわけじゃない。教室の中央やや後ろでは、KAIさんに関係なく4人組がおしゃべりしながら画用紙に書き込んで何やら作ってる。おおー、やる気だ(笑) でも、KAIさんは注意しない。気づいてるんだろうけど、何も言わず絵本を読んでいく。
絵本は、きゅうりと間違えられるのが嫌なヘチマのへーたろーが、太ったり、自分をピカピカにしたり、人間の言葉を覚えたりして奮闘する話。けっこうおもしろくて僕も聞き入ってしまい、ふと気づいて後ろをみると、4人組もいつのまにかなんとなく聞いている。ほお、なるほど…。
思い思いに「読む時間」
読み聞かせが終わった9時5分頃、KAIさんが「じゃあ自分の読書に戻りましょう」。それを聞いて、「自分の読書」は「戻る場所」なんだ、きっと読書が根づいているんだろうな、なんて思う。
子どもたちが机にもどり、自分の本を取り出して「読む時間」がはじまった。怪談レストラン、図鑑、絵本、ゾロリ、歴史漫画、青い鳥文庫…小学二年生が読んでいるのはさまざまだ。サークルベンチを使う子が多いのかと思ったら、意外に大多数は自分の机にいる。とはいえ、一人で読んでいる子、本棚のあたりをうろうろする子、サークルベンチに座って読む子、なかには読んでいない子も。KAIさんは特にカンファランスをするでもなく、教室前方の自分の机で本を広げて読み始めた。あれ、KAIさんは、リーディング・ワークショップではあまりカンファランスをしないのかな? そんなことを気にしながら、僕も子供たちの様子を見させてもらった。
僕のリーディング・ワークショップと違うのは、2人で同じ本を一緒に読んでいるペアが4組もいること。教室で聞こえるのは、その子たちが本を音読するささやき声。あとは静かな空間の中で、みんな本を読んだり、読書家ノート(下記エントリで書いた振り返りジャーナルと同じ、B5ノートを半分に切った大きさ)を書いたりしていた。そういう中で、最初は本を読んでいなかった子も、ようやく本を手にとって読み始めたようだ。
チャイムが鳴っても…
リーディング・ワークショップの時間は、思いのほか長かった。9時30分、チャイムが鳴る。読む時間がだいたい25分なので、僕のリーディング・ワークショップと同じはずなんだけど、自分で授業するより長く感じる。これはどうしてなのかなあ…ということが気になった。
この日、一番印象的だったのはこのあとの出来事だ。
チャイムが鳴っても、KAIさんは何も言わない。「振り返りを書きましょう」みたいな指示もなければ、「はい、終了」の号令さえない。ただ、自分の本棚に本を片づける。まわりの子たちは、きりの良いところまで読むのか、少しずつばらばらに本をしまう。教室の中をうごきまわる子も出てくる。けん玉で遊ぶ子も出はじめた。なんとなく始まった読書家の時間が、なんとなく終わっていく。授業時間と休み時間の境目がなくて、ゆるやかにつながってる。僕はそれを見ながら福井の渡邉さんの授業を思い出していた。この「終わりのない」感じ、渡邉さんの授業に近い。
結局、休み時間のあいだ、ずっと本を読み続けている子が10人近くもいた。そしてその中に、最初は本を読んでいなかった子も入っていた。
セオリー通りの「作家の時間」
チャイムが鳴って、9時36分。号令も何もないまま、KAIさんがごく普通の声で「じゃ、ミニレッスンやるよ」と言って、今度はライティング・ワークショップ(作家の時間)が始まる。ミニレッスンは、生活文を書くときの題材をどのように決めていくか。タイムラインやマッピングでいったん拡散したあとの収束のさせ方がテーマのようだ。
10分間のミニレッスンの後、「書く時間」のスタート。「下書きや修正や清書など、やることは自分たちに任せます」と言ってKAIさんはミニレッスンを締めくくったが、教室の壁には作家のサイクルの図もあり、子どもたちはもうやることが分かっている様子。自分たちの机で書いている子たちの間を、大きめのポストイットを片手に、KAIさんがカンファランスに動く図式だ。
そして、子どもたちの進度はバラバラ。作家ノートに下書きを書く子、隣の子とおしゃべりをする子、完成原稿に清書する子、出版した作品集(もう10号目!)を読む子、他のクラスメートへファンレターを書く子…。こうした点は、いわばライティング・ワークショップのセオリー通りの展開なので、僕には驚きはない。あえていえば「普通」だ。ちょっと印象的だったのは「本を読んでいる子がいない」ことくらいだけど、これは僕の場合と違って、リーディング・ワークショップ(読書家の時間)の時間がたくさんあるから、いらないのだと思う。
自分の授業と比べて面白かったところ
教室を見ていて、僕には次のような点が面白かった。
自然発生的なカンファランス
リーディング・ワークショップとは一転して、ライティング・ワークショップでのKAIさんは、カンファランスに忙しい。そして、カンファランスが僕の授業よりも自然に、偶発的に発生している。僕の場合、40人の生徒(×3~4クラス)相手に週2コマの授業なので、事前にカンファランスする子をほぼ決めているのだけど(下記エントリ参照)、
KAIさんは、おそらくカンファランスする子を事前に決めていない。ノルマの数もない。その場で気になった子を見ている。また、生徒がKAIさんを呼び止めてカンファランスになることも、かなりある。カンファランスの発生が僕よりも自然だ。
あちこちで起こる共同執筆
また、二人で一つの作品を作る共同執筆が、あちこちでおこっていた。「共同」の在り方は、二人でストーリーを考えたり、一方が続きを書いたり、一方が絵を描いたりで、これもさまざま。僕のクラスでのChromebookでの共同執筆と違って、同じ一枚の紙をつかってやるので、必然的に距離が近くなるのはいいな。
「絵」の果たす大切な役割
小学2年生の教室を見ると、「絵」の果たす役割って大切だなと思う。読書家ノートに本の表紙の絵を描いている子、作家ノートに舞台となる家の間取り図を書いている子、完成作品用の原稿用紙に挿絵を書いている子…本当に多くの子が「絵」を描いている。原稿用紙も、色々な位置に挿絵を入れられるように、多くの種類から選べるようになっている。これはいいなあと思った。
書き手が選べる「共有の時間」
だいたい30分弱の書く時間を終えると、10時15分から共有の時間。共有の時間に作家の椅子に座って発表する子は、どうやら事前に決まっているらしい。黒板にかかったミニホワイトボードに名前があらかじめ書かれている。これもセオリー通り、前の椅子にその子が座り、他のみんなは前方に集まってくる。例によって集まらない子もいるのだけど、KAIさんは、「もっと前に」みたいなことは言わない。
この共有の時間、いいアイデアだなと思ったのは、発表する子が「感想をもらうかアドバイスをもらうか」選べること。希望を言ってから(この子は「どっちも」だった)、自分の作品を音読して、周囲の子が大きなポストイットにそれを書いて手渡すという仕組みだ。アドバイスはもらう側にその用意がないと無駄になることが多いので、これは理にかなっている。
そうやって共有の時間を終えるとちょうど10時20分のチャイムがなる。中休みが始まったところで僕は失礼して自分の学校に大急ぎで向かった。
自然でゆったり、KAIさんの教室
自然にふるまえる教室空間
今回の見学で一番印象に残ったのは、とにかく教室にいる子供たちが「自然」であること。教室という空間はどうしても統制する圧力が働く。中には、それが仕事だと思っている先生もいる。
教師の圧力は、KAIさんの教室だってあるに決まっている。だけど、KAIさんは自分の権力を、子供たちを自然にふるまわせる「場」を作る力として行使しようとしているのだと思う。たとえば、全体に対して指示や注意をすることを極力抑えているのもその一つで、KAIさんはきっと、こういう空間をつくることに専心してきたのだと思う。
僕のこのブログエントリも、たった2時間なので「授業見学記」と書くべきところなのだけど、それでも「教室訪問記」と書きたくなったのは、KAIさんのライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの原動力になっているのが、「授業」という時間的に区切られた時空ではなく、「教室」の力なのだということを感じたからだ。
時間で区切られない「場」の力
先日、僕のライティング・ワークショップを見学に来てくれた大学院生さんが、KAIさんの授業と僕のを比較して次のようにおっしゃっていた。
あすこまさんに「教科教育」という意識が明確にあることがやはり一番の違いかなと思います。私が○○さん(=KAIさん)の学校を観に行った時はリーディング・ワークショップ(読書家の時間)だったので一概には言い切れませんが、国語科の授業時間と朝読書の時間をつなげて毎日のルーティーンにしているといったような印象でした。教科の学習としての性質は もちろん活かしながらですが、どちらかというと「安心・安全な場づくり」の一環としての色が強いのかもしれません。
この院生さんのおっしゃっていることが、自分もKAIさんの授業を見た今となってはよくわかる。僕のはあくまで「国語の授業」で、その時間が終われば終わり。それに対して、KAIさんのライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップは、子供たちの「生活の一部」になっているのだ。
ゆるやかにはじまり、ゆるやかに終わる時間
小学校の1コマは、中高よりも5分短い45分間。僕が自分で経験する50分授業はあっという間にすぎるのに、KAIさんのライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップは、とてものんびり、ゆったりしていた。この違いは、なぜなんだろう。授業者と見学者という立場の違い、小学校と中高の違い…どうもそれだけではない気がする。
はじまりやおわりを意識的に明確にしない。最後に「振り返りを書こう」や「終了」などと言ったりしない、そういうことの積み重ねで、こんなゆったりした時間ができるのかな。そしてこのゆったりとした時間の中で、当初は発言する気がなかった子、読み聞かせを聞いていなかった子、本を読んでいなかった子が、いつのまにかその気になってしまう。下手をするとチャイムが鳴り終わっても読み続けてしまう。これが本当に面白い。
「場づくりの力」を思い知りました
あえて言うと、KAIさんの授業は、コンテンツやフォーマットだけなら「普通」だった。一連の流れだけなら、僕でもできるライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップがそこにある。でも、生徒がこんな風にゆったりと自然にふるまえて、お互いがかかわりえる空間は、僕には全然つくれてないな。これが「場の力」なんだと思う。
別にKAIさんの教室が理想というつもりもなく、例えば、KAIさんの教室はアトウェルのリーディング&ライティング・ワークショップとは、全く違う。アトウェルの学校のほうがずっと淡々と個人作業をしている。教師も個々の書く力をきっちり鍛えるという印象がある。
ただ、どっちが、ではなく、どちらも最終的には「主体的な読み手/書き手を育てる」という方向を向いている気がするし、それにむけて色々なアプローチの「良さ」があるのだと思う。それはきっと、その教師がどういう教師でありたいかということと関わっていて、アトウェルは読み書きを教えることのプロフェッショナルであり、KAIさんはまた違う教師像を持っているのだ。
それにしても、力量のある小学校の先生は、場づくりの意識や力が僕よりも全然上。こればっかりは、いくら本や論文を読んでもかなわない。頭でっかちじゃいけないな、今更だけど、自分はもっと遊んだり、身体を動かしたりして、五感で色々なことを感じないといけないのかな、ということを思う。今までの自分を否定する必要は全くないけど、ライティング・ワークショップの教師として、もっと幅広いアプローチがとれるようになりたい、と素直に思った。
たった2時間だったけど、とてもゆったりとして、それでいて刺激的な2時間だった。長文になったけど、忘れないようにできるだけ記して、最後にKAIさんへの感謝を添えます。急なお願いを引き受けてくださってありがとうございました。こういう、自然でゆったりとした子供時代をすごせる小学生たちは、本当に幸せだと思います。