もしかして、やっぱり、自信がないのかも…? 先週の「読書家の時間」での「揺れ」の話。

今日は先週の金曜日の「読書家の時間」で、自分がちょっと揺れたことについて振り返りたいと思います。で、書いて気づいたことを先に書いてしまうと、僕はもしかして、というかやっぱり「読書家の時間」にあまり自信がないんだな、ということ…。と言うのも、ダニエル・ペナックの「読者の権利10か条」の観点からすれば、何をやっても、読書の本来の楽しみを奪う余計なおせっかいだと承知しつつも、一方で、読書を通して読む力をつける観点からはそれをする必要性を感じてもいる、その矛盾の中に自分がいる自覚があるんですね。とはいえ、矛盾を引き受けるほどの確信を持ちきれてない。だから揺れてしまうんだろうと思います。ふりかえると、先週の金曜の「揺れ」も、自分の自信のなさの表れだな、とこのエントリを書き終えて思ったところです。以下詳細を。

画像は、いつもミニブックトークをやるときに掲示する役割の図。これを使っていやっていたときに、今日のエントリで書く出来事は起きました。

読書家の時間のミニ・ブックトーク

先週の「読書家の時間」では、最後にミニブックトークをやりました。僕が「読書家の時間」の最後にやる事はある程度は定番化していて、①読書一万ページを記録するか、②読書ノートを書くか、それかこの③ミニブックトークをするか。①読書一万ページは読むことの量を高めることを、②読書ノートは、読む質を高めることを、そして③ミニブックトークは、お互いの交流や本の情報交換を目的にした時間です。

ブックトーク自体は筑駒時代からやっていて、ただその頃は一人がみんなの前でブックトークをする形式だったのだけど、風越に来てから、大勢の前で話すことへのプレッシャーが大きいことや、小さなアウトプットをできるだけ多くの子に経験してもらいたいこと、そして他の子の紹介から新しい本に出会う機会を増やしたいことなどの理由で、たしか2022年頃からかな?、3人1組で小さく簡単に本の紹介をし合う「ミニ・ブックトーク」にしています。

ホワイトボード・ミーティング®︎をもとにしたミニブックトーク

そして、ここら辺から既に余計なおせっかいなのかもしれないのだけど、僕の場合は、ある程度構成的にミニブックトークをやっていました。ちょんせいこさんのホワイトボードミーティング®︎の、ミニホワイトボードを使って相手の話を聞く方法をブックトークに援用して、「話す人」「聞く人」話した内容をホワイトボードに「書く人」という3つの役割を、3人でそれぞれ交代していくやり方をしていました(サムネイルの画像を参照)。これ、自分ではいいアイディアだと思ってたんですよね。話す練習、聞く練習、メモをとる練習になるので、国語的にもバランスよい活動な気がして。振り返ってみると、「作家の時間」で昔やっていた「編集会議」と似てて、自分はこういうふうに構成的にやるのが好きなのかも、という気もする。

「えーっ」の声に揺れた一時間目…

ただ、先週の金曜日のこと。今回もいつも通りこのやり方でやっているときに、おしゃべりの内容を聞いて「話す時間が足りてないな」と思ったので「あと1分位延長しようか」と言ったところ、「えーっ」という、嫌そうな声が聞こえてきたんです。で、「あれ、そうなの?」と驚いて、そのまま素通りしないほうがいいんじゃないかと思って、一旦授業をストップしてしまいました。

で、あらためてこのブックトークの狙いを話した上で、何人かの子に感想を聞き、さらに全員に今やっているこのブックトークに対してどう思ってるかを3択(ポジティブか、普通か、ネガティブか)で簡単に尋ねてみました。そしたらほぼ全員が「普通」に手を挙げたので、今日は、ミニブックトーク自体を取りやめることに。そして、残り時間を使って、普通がポジティブになるにはどうしたらいいか、みんなのアイディアをミニホワイトボードに書いて提出してもらって、そのクラスの授業を終えました。それが一時間目のクラスでのできごと。

「5分間、3人で本の紹介をしあう」だけに

続く2時間目のクラスでは、1時間目のクラスの経緯を話した上で、1時間目のクラスの子の提案(「書く人」はいらない、読む時間がもっとほしいから全体で5分に収める)を取り入れたかたちに、やり方を変えてみました。3つの役割をローテーションすることをやめて、とてもシンプルに、「5分間、3人で本の紹介をし合う」だけの指定に変えたのです。

ここで勘違いしないでほしいのは、このエントリは、「生徒の声を聞いて授業を変えるのが大事」と言いたいわけじゃないってこと。この変更、よかったのかどうか、自分でもまだ腑に落ちてないんですね。そもそも、2時間目のクラスの子にとっては、自分たちとは関係ない文脈でやり方が急に変わったわけで、せめて「さっきのクラスでこういうことがあったんだけど、どっちのやり方にする?」と聞くべきだった。それについてはむしろ反省点。

それに2時間目のクラスでも終わった後、何人かの子に感想を聞いてみたんですが、前より良かったと言う子もいればあまり変わらないと言う子もいたんですよね。そして、1時間目のクラスの子数名に休み時間に軽く聞いてみたところ、「そもそも前のやり方で嫌だとは思ってなかった」と言う子もいれば、「『書く人』の役割にどんな意味か自分がちゃんとわかってなかった。それを理解してたら、もうちょっと前向きにやれたかも」という意見もあって、この日の変更が良かったのかどうか、ちょっとわからないままな印象です。正直な話、子供にとってはどっちでもいい話題(それはそれで残念なのだけど)だったのに、数名の「えーっ」の声に自分がこだわってしまっただけなのかな、という気もする。

で、今振り返って一番気になるのは、「えーっ」が聞こえたとき、なんで自分は動揺したのかということ。それはもしかして一部の子の声かもしれないのに、それに影響されすぎたのかもしれない。実際、何につけても「えーっ」と言いたがる子はいるし、風越が言いやすい雰囲気であるのも事実。だから、どんな声があがろうと、自分のやり方に確信を持てていれば、毅然として無視することもできた。たとえば、出版記念オーサーズトークやライターズ・グループを導入したときも、「えーっ」の声はあって、でも、このときは自分に確信なりたしかな理由なりあって導入した。そして結果的に、終わったあとは「こっちの方が良かった」の声が多数だった。なんで、あのときのような、「えーっ」を無視する判断を自分はしなかったんだろう。

もしかして、「話す人」「聞く人」「書く人」と役割がわかれたこの構成的なミニブックトークのやり方だと、読んだ本について気軽におしゃべりする雰囲気に欠けていたことが、自分でも気になっていたからかもしれない。結局のところ「自分がやっている事は余計なおせっかいなのかも」という思いが、ちょっとの「えー」の声に自分が動揺してしまった理由なのかなと捉えてます。そしてその根っこには、きっとペナックの「読者の権利」があるんですね。個人的な経験としてはめちゃくちゃ共感するペナックの10か条と、「でも、読書を通して読む力を高めようとしたら、それだけでいいはずがない」という思いの双方の間で引き裂かれている自分がいることを自覚します。そこらへんが、僕にとって「読書家の時間」が難しい理由でもある。

月曜からは作家の時間の出版ウィークなので、次にこのミニブックトークをやるのは少し先のことになりそう。でも、その時に、特に1時間目のクラスで、この日の文脈をどう引き継いでどんな形式でやるか。元の3つの役割のローテーションに戻すか、それともただの気軽な本についてのおしゃべりにするか。どっちにも一長一短があるのでちょっとまだ決めかねているのだけど、その揺れの奥にあるのは、結局のところ、「読書家の時間」に対する自分の自信のなさなのかもしれません。

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