前々回のエントリで書いた通り、無事に出版を終えました。月曜に製本して、今日、ここまでのふりかえりを書いて、来週は「出版記念オーサーズトーク」。それを前にして、今日は作家の時間の終盤に考えていたことを。僕のブログには珍しく、文法の話です。いや、こういうのでも迷っているんですよ。
実はけっこうある、句点が打てないケース
実は、風越の子の作品、句点(マル)を打っていないことが多いんです。読点(テン)ではなくて、句点(マル)ですよ。確かにテンを打つのは難しい。前任校でも、適切にテンを打てない中高生はいて、『いまさら聞けないテンの打ち方講座』と題してテンの打ち方を一コマかけて教えたこともありました(元ネタはいくつかありますが、ベースは本多勝一『日本語の作文技術』です)。
とはいえそれはテンの話。小学56年生の段階で、マルが打てないとは、正直想定していませんでした。単に句点がないのもあるけど、本来句点のところをテンを打っているケースがとても多い。僕はもともと、書くことの力の基本は、書くことを通して、世界を発見する楽しさを知っていることや、読み手を信頼する姿勢を持つことだと思っていて、文法的正しさはさほど重視していないのだけど、それでもせめてマル位は打てないと読みにくいよ、というのが正直な気持ちです。
どうして多い? 句点の打ち忘れ/打ち間違い
そして、同時にシンプルに興味を持つのが、一体どうしてこんなに句点の打ち忘れ/打ち間違いが多いか、という問題でした。
まず思いつくのは、デバイスの影響です。風越学園では、56年生はクロームブックを使い始める時期。「作家の時間」では、手書きでもクロームブックでも良いのだけど、大抵の子はもの珍しさもあって、クロームブックを使いたがる。そうすると句点の打ち忘れや打ち間違いが増える気がします。彼らがパソコンの画面を通して見る文章は短文が多く、詩のように、途中で改行しているものも多いのかもしれません。
次に思いつくのは、風越学園のカリキュラムの影響です。風越学園では、全員で同じテキストを読む機会が少なく、いわゆる「マル読み」の経験が公立校に比べると圧倒的に少ない状況です。また音読の宿題もない。この音読の不足がマルを意識する機会の不足につながっている可能性もありそう。ちなみに、僕は風越で働き始めて5年目になりますが、公立小学校を4年生まで経験して風越に来た当初の受け持ちの子たち(いまの中3世代)の句点の打ち忘れ/間違いが、今よりも圧倒的に少なかったのは間違いありません。もっとも、それが学習経験の違いゆえなのか、その間にも進行する世代差、はたまた個人差なのかはわからないのだけど…。
文法事項を扱うミニレッスン
と、いうわけで、今回は、終盤のミニレッスンで、「主語」「述語」や「文」という文法用語を改めて確認しました。そして、その次の回のミニレッスンでは、主語・述語のねじれの問題も取り上げました。でも、授業後に子供たちに反応聞いてみると、ちょっとこの話は難しかったのかな。「なるほど!」的な反応を、学力の高い一部の子はしてた。だから届いた層もいた。でも、そもそも述語が何かよくわからない子や、話をあまり聞かず「早く書きたいのに」と思っていた子もいた。
理屈っぽい説明のあとには、句点を読点に直したサンプル文章をペアでマル読みして修正してもらう活動もしたのだけど、そのほうが腑に落ちていたような気はする。とするとやはり子どもには説明より体験なのか。でも、読書体験なら普通の学校よりも多いはずなのに(句点のある文章に触れる機会は多いのに)、それがなぜ書く方には反映されないのか…やはり句点を感覚的に意識する機会(音読など)の不足なのか….などと頭はぐるぐるまわる。
文法、つまりメタ言語知識を直接理解してもらうのは、やっぱり56年生には難しそう。でも、述語を中心に文章を見る姿勢は、読むだけでなく、文章を書く上でも役立つことは間違いない。例えば、述語の概念があれば、句点だけでなく読点を打つ時にも役立つわけです。例えば、「私はご飯を食べて学校に行きました」で読点を打つべき場所は、動詞の連用中止法の「食べて」のあとだけど、ざっくりと主語と述語のまとまりでひとつの意味のまとまりをつくるいう言い方で説明しちゃうのもありなんじゃないかな?
個人的には、文章を読み書きする上で、実際に役立つ最低限の文法知識は持たせてあげたいのだけど、その最低限のラインとはどこなんだろう。そして、どうやって教えると子供の実態に合うのだろう。そのへんが難しいところ…。
「作家の時間」をはじめて、年数だけは15年位経ってるのですが、いまだにこんな基本的なところでおろおろしている日々です。