この秋10月に中学生で取り組んだ「新聞記事読者投稿欄を書く」授業。初めての試みだったことや授業コマ数不足もあって、反省点も多かったのだけど、一度やって形は見えてきた感じ。次回に備え、自分用のメモに顛末を報告します。
目次
授業の基本的な流れ
授業の基本的な流れは以下のようなもの。
- 事前に10代が投稿した読者投稿を収集しておく(司書さんの協力を得て、120程度集めた)
- 最初の授業でそれを提示し、掲載されている投稿の傾向を分析してもらう。
- 分析に基づいて、自分はどんな方針で、どこの新聞を想定して、投稿記事を書くのかを決める。
- いったん書いたら、ライティング・パートナーと交換してコメントをもらう
- 各自で書き直して完成させる
- 任意で新聞に投稿する
上記エントリにも書いたが、ナンシー・アトウェルが授業で「回想録」などのジャンルを学ぶ際に、最初にモデル作品を生徒全員で読んで特徴を分析するやり方を参考にしている。
やって良かったところ
300字〜500字で書けるところ
読者投稿欄を書くメリットの一つは短さ。各社の投稿規定による文字数の目安は、2017年時点で、読売新聞「気流」330字、東京新聞「発言」350字、毎日新聞「みんなの広場」400字、産経新聞「談話室」400字、朝日新聞「声」550字、東京新聞「ミラー」660字となっている。
ナンシー・アトウェルが詩を重視する理由の一つに「すぐに書けるので、書くプロセスを最初から最後までを経験するのに適している」ことがあるが(下記エントリ参照)、同様なことはこの新聞記事投稿にも言える。
学校の外に発表の場があるところ
これは言うまでもない一番のメリット。作文を教室の中にとどめず、外部の実際に機能する場に置くことは大事。それが気軽にできるからこそ、授業で新聞投稿をやっている国語の先生方が少なからずいらっしゃるのでしょうね。やってみて、自分もそのメリットは感じました。
教師の判断が相対化されるところ
上記のメリットに関連して、学外の読み手の基準によって、教師の判断が相対化されるというメリットもある。教師が「これはいい」と思ったものが必ずしも掲載されるわけではないし、逆に教師の評価がそう高くなくても掲載されることもある。もちろん運もあるだろうけど、そんなふうに、教師の評価が教室の外によって相対化されるのはとても良いことだと思う。ちなみに僕の授業では、書いた文章は30点満点で評価したのだけど、掲載された人は問答無用で35点という仕組みだった。
書くことの場における権力性に注意がいくところ
これは授業を始めた時のエントリに書いたこと。新聞読者投稿欄で期待されている「10代らしさ」というものはやはりあるので、書くことの場における権力性の問題について自覚的に扱う良い機会だと思う(実際には、生徒の多くはとっくに自覚しているのだと思うけど、学校で書く文章の場合、権力者が教師自身であることが多いので、授業で話題にしにくいのである)。
反省点と気をつけるべきところ
反対に、これは失敗だったなあと反省する点や、ここを気をつけた方がいいなと感じた点もある。次回に向けてメモ。
授業時間、意外と必要
せいぜい500字なので、うちの生徒なら授業時間は3時間か4時間もあれば十分かなと思っていたのだけど、無理でした。5時間必要でした。ざっと、分析に1時間、アイデアを考えて自分で書くのに2時間、読み合って書き直すのにもう2時間という感じ。まあ、宿題にすれば4時間でもいけるかもしれないけど…。この読み間違いのせいで最後が尻切れとんぼになってしまい、生徒にも申し訳なかった。
分析するなら丁寧に
新聞記事投稿、生徒側には「どうせ道徳的な作文を書けばいいんでしょ?」という雰囲気もあり、しかもそれがある程度は間違ってない。そして、そういう思いが「くだらない」と生徒のモチベーションを下げる面があるのも事実である。
とはいえ、実際に分析してみると、全ての投稿が「道徳的な」「大人が喜びそうな子供らしい意見」かというと、そうでもない。ある生徒の分析を以下に引用する。
- ほとんどすべての投稿(118/121)において「日々の生活で感じたこと」(86/121)または「最近のニュースを見ていて考えたこと」(54/121)のどちらかが書かれている。また、両方を書かれた投稿もあった(22/121)。また、特に東京新聞においてはすべての投稿(55/55)が上のどちらかを含んでいた。
- 初見では「道徳的」あるいは「一日一善」といった投稿がほぼすべてを占めるように感じたが、実際に調べてみると、85/121(約70%)と予想より少なかった。
- さらに、読者や編集者に問いかける形での寄稿も多くはないが見られた(22/121)。これらは半数(11/22)が「世の中の道徳的な課題の中で疑問に思ったこと」を問いかける形式だった。
- また、男子中学生だけ(16/121)に絞ってみても、統計の結果はすべての投稿を統計した時とほとんど変わりはなかった。
これを見てもわかるように、確かに道徳的な内容が多いのだけど、初見の印象ほど画一的でもないのだ。意見文もあれば、日々の生活の中から書いたエッセイもある。全体の構成や書き出し、終わり方のパターンも調べてもらったところ、全体の傾向はあるのだが、必ずしも絶対ではない。最初の印象を絶対視しすぎず、丁寧に分析すると良さそう。
なお、こうした分析は、受け持ちクラスが変わったらその都度やることが大事。毎年使いまわしては意味がない、とは、アトウェルが強調するところである。
そして、僕は10代の投稿をあらかじめ選んで抜粋してしまったのだけど、これは失敗だったと思った。むしろ、他の年代の投稿と一緒に読んで比較することで、「10代の投稿にはどんな役割が期待されているのか」が見えてくる可能性がある。
意見文なの?エッセイなの?
自分で実際に授業して見てわかったのだけど、掲載される読者投稿は、必ずしも「論理的で説得力のある意見文」とは限らない。そういうものも数多くあるけれど、自分の立場を最後まで決めずに問いを投げかけて終わるものもあるし、極端な見方に偏っていて意見文としてはあまり説得力を感じない(が、読者の反発を呼んでこの後に反応をもらえそうな)ものもある。意見文ではなくて、微笑ましい日常生活のエピソードを書いたエッセイもある。だから、例えば「意見文の書き方を教えること」を目標にして新聞の読者投稿を扱うのは、あまりいいやり方ではないなあと思った。これはあくまで、新聞の読者投稿欄という一つのジャンルだと思った。
「書き手の意図」をしっかり書いてもらう必要あり
僕はいつも生徒に「書き手の意図」を書いてもらって作品と合わせて提出してもらうのだけど、「新聞記事投稿」ではそれが一層大事だと思った。というのも、本文が短いし、さらに上記のように実際に掲載されている投稿にも色々なもの(意見文だったりエッセイだったり)があるので、書き手がどういうスタンスで書いたのか、読み取りにくいことがあるからだ。
例えば、生徒の中には「あえて中学生らしい論理の穴を入れること」を意図して文章を書いた子達もいる。それはそれで一つの戦略だけど、その場合は書き手の意図をちゃんと書いてもらわないと、こちらが読むときにただの論理の欠陥として読んでしまう可能性がある。
実際に投稿するかどうかは任意で
この授業を通じて書いた文章を実際に新聞に投稿するかどうかは任意が良いと思う。投稿自体はメールで簡単にできるけど、その際には住所氏名が必要だし、氏名は紙面にも掲載されることになるから。
とりあえず、今の所はこんなものだろうか。新聞の投稿を書く授業をされている先生は他にもけっこういらっしゃると思うので、「自分はこんな風にやってますよー」というのがあれば、ぜひ教えてください!
おまけ:今回は僕も含めて6人が掲載されました
ちなみに今回は、生徒5人と僕の合計6人が掲載されました。最終的に投稿するかどうかが任意なので、母数はわからないけど、まあこんなものでしょうか。とりあえず僕が載ったので気分が良い。僕のは授業でのみんなの分析結果にしたがって、「こう書けば載りやすいかな」というオーソドックスな組み立てで書いてみたもの。記念に載せておきまーす。
運動会の練習 長時間必要か
この秋、子どもたちの通う小学校の運動会があった。驚いたのは、この日のために夏休み明けから毎日一時間、運動会直前は毎日二時間もの練習があったことだ。20時間は超えただろう。知人に聞くと、似たような小学校も多いとのこと。たしかに、多くの競技・ダンス・応援の練習を通じて、子どもたちは達成感を得ていたようだ。しかし、ただでさえ教師の多忙が話題となり、プログラミングや英語の導入で一層の時間不足が懸念される小学校で、長時間を運動会練習に費やす必要はあるのだろうか。中学校以上では練習にさほど時間をかけない学校もあるし、以前に経験した海外の小学校の運動会は、全く練習がないレクリエーションだった。小学校の運動会は本当に多大な時間と負担をかけるべき活動なのか、実施する目的も含め、考え直す時期ではないだろうか。