「まずは愚痴から始めてみようか」。年内最後のかざこしミーティングで教えられたこと。

昨日、軽井沢風越学園の年内最後の「かざこしミーティング」があった。7・8年生のファシリテーターチームが中心になって運用する、子どもたちの集会だ。チームの中心を担う子たちは、どの子も素晴らしい。午前中には、幼稚園から8年生までが一緒になっての鬼ごっこやだるまさんがころんだをやって、見事に運営していた(全校生徒でのだるまさんがころんだって、どうやるか想像つきます?) とても楽しい時間だった。でも、今日忘れずに書かなきゃって思ったのは、そのあとの話。僕のいる5・6年生の話し合いの場面で、8年生のファシリテーターのSくんに、助けられたし、教えられた話だ。

写真は、風越学園の南にある八風山という山の山頂からの景色。「遠足(とおあし)」という風越学園初の全校行事で登ったのだけど、良い眺めでした。

昨日の「かざこしミーティング」では、全校での「だるまさんがころんだ」のあとで、3・4年、5・6年、7・8年にわかれて、「最近の風越についてどう思う?」を話し合う時間が設定されていた。5・6年の僕たちの教室に来て、この場の趣旨を話してくれたのがSくんだ。Sくんがまず言ったのは、「本音を出しあう場」を持ちたいということ。それから強調していたのが「愚痴でいい」ということだった。「僕も小学校5・6年の時は愚痴が多かったから…」と言いながら、S君は、「愚痴でいいから、率直に本音を語り合う、聴き合う、相手のことを知る」ことの価値を、僕たちスタッフや、5・6年生に繰り返し伝えてくれた。ふだんにぎやかになりがちな子たちも、真剣に聞いていた。

ただ、聞きながら、僕には、少し気がかりなこともあった。というのも、「学校への不満や文句ばかりになって、『こうしたい』につながらないかも?」と思ったのだ。子どもが「お客さん」的に「改善要望」をしてスタッフがそれに応えるという関係性ではなくて、子どもたち自身が「だから自分はこうしたい」とアクションを起こしてほしい。それは日頃、僕が思っていることでもあった。

それに正直に書くと、僕の受け持つ5・6年ラーニンググループには、12月のこの時期でもまだしっくりこないことがある。それは、ラーニンググループで子供同士が話し合う時、あるいはスタッフが話をする時、何か提案があると、それに対する否定的で、時に揶揄するつぶやきが複数出てくることだ。他の子はそういうつぶやきを恐れて自由に発言・提案できなくなるし、お互いの距離も開いていく。そういう発言に対する僕たち大人からのたしなめや注意で話が長くなり、関係ない子の待機時間も増え、場も冷える。悪循環と言っていい。

僕はそれが嫌で、みんなが安心して過ごせる場にしたいな、とずっと思ってきた。それで、そういう発言の多い子たちには、個別に「相手の発言を否定すると、自由に発言できなくなるからやめよう」「文句じゃなくて、じゃあこうしたいっていう提案のかたちにしよう」「文句だけ言うって、楽だよね。でも、そういう『お客さん』にならないでほしい」と、言い続けてきた。

そんな僕からすると、「とにかく愚痴を出そう」というS君の発言が、これからどんな展開を生むか、少し気がかりだった。少なくとも自分からは出ない発言だった。でも、S君が、5・6年生向けにとても良く考えて言葉を選んでいることはよくわかったので、彼の発言をホワイトボードに書き写してそのサポートをしようと思った。途中、書き写しながら、「愚痴をたくさん出すことで、かえって良いところが見えてくるかもしれないし」というS君の発言を聞いて、ああそうだな、と少し安心した気持ちになった。

S君の話が終わり、その後、同席していたゴリさん(岩瀬さん)がS君に「Sはいまの風越についてどう思うの?」と聞くシーンがあり、いよいよ5・6年生で話し合おうとなった時のことだ。そのままだと大人数すぎるのでグループわけをする。ここで実は、僕たちスタッフは、いろいろな子(学年・男女)がまじるように5つのグループを機械的に組む案を事前に考えていた。まさにそう指示をして動こうとした時、S君が止めた。「7・8年生は、最初は仲良い子同士で2人くらいになることにしたんだよね。そのほうが話しやすいから…」。それを聞いた僕の同僚が、どっちがいいかを子どもたちに聞く。S君の案のほうが良い、という声が複数あがる。聞いた同僚は、それでも少し迷っているようだった。「仲が良い子同士」で組んだ時に、グループに入れない子が出てくるのを懸念しているのだ。その懸念を伝え、それでも大丈夫という反応が返ってきて、S君の提案が採用された。こうして、仲の良い子同士で、今の軽井沢風越学園に対する思い(愚痴)を言う、というかざこしミーティングの時間がはじまった。

そこで、どんな内容が話されたかは、詳述しない。でも、とても良い時間だったことは強調しておこう。最初こそ「どうなるのかな?」「最後、どう収拾をつけようか」という気持ちもあったけど、実際に聞いていると、子どもたちの愚痴の多くは「なるほど」と思えるものだったし、この子は日頃こんなことを考えていたのか、という新鮮な発見もたくさんあった。そこから「じゃあこういうのはどう?」という話も生まれてきた。当初の終了予定をかなり伸ばして、「わたしをつくる」の時間に入っても、それでもまだ言いたりないことがある子は残って話を続けた。

この日の話で、特に印象深い発言もあった。ある子が「スタッフが否定するなって言うけど、それも否定じゃん」「否定も一つの意見なんだよ」と言っていたのだ。へーと思って聞いていたら「あすこまがいると言いにくいからあっち行って」と言われたので、それ以上詳しいことは聞いていない。でも、なるほどな、と思った。

「人の発言を否定する発言をやめさせようとするスタッフの発言も、人の発言を否定している」という「論理」自体は、すぐに反論できる。でもこの発言が伝えたいことは、論理云々じゃなくて、自分の口が封じられているという不満の表明なのだろう。すぐ何か否定的につぶやく子は、おそらく今のところは否定という形の力を借りて初めて自分の意見が言えるのだ。それ以上はまだ難しいし、まして不満を提案の形にしようよというのは、ハイレベルすぎることを求めているのかもしれない。だから、否定するなと言われると、自分がまるごと否定されたように感じてしまう。こちらの気持ちや理屈がどうあれ、僕の「否定はやめよう」「提案にしよう」という言葉は、言われる側にとってはただの「口封じ」だったんだな。ちょんせいこさんが、よく「困る子は困っている子」と言うけど、彼らもまた、僕に言葉を奪われて困っていたのかもしれない。

もちろん、だからといって否定的反応、特に他の子の発言への否定的反応を許容しつづけられるわけじゃない。実際、今回のかざこしミーティングでも「何か言うとすぐ否定的なことをつぶやかれるのが嫌」という訴えも複数あって、やはり、ラーニンググループの課題には違いないから。でも、少なくとも、否定的つぶやきが多い子たちに対して、その都度「否定するのをやめよう」とか「提案の形にしよう」と言っても、彼らもきっとどうしようもないのだ。できないことを、「こうであるべき」と「べき」論を押し付けても仕方がない。それよりも、別の場で、1対1で「まずは愚痴から始めてみようか」というこちら側の聞く姿勢が大事なんだろうなと思う。そこでたっぷり聞いておけば、全体の場ではそういう発言が減っていくかもしれない。何より、表面的な問題に直接アプローチするよりも、他のことで彼らが満たされ、成長し、自然と変わってくるのを待つしかないものなのだろう。

今年は本当に色々あった。いろんな子がいて、それぞれの成長なり葛藤なり、問題なりがあって。けっこう対応に追われた年でもあった。でも、個々の問題に対応したり、グループ内の人間関係を広げていきたいと動いたりする中で、僕の姿勢や語りが硬直化してしまうことも、きっとあったのだろう。「すぐ愚痴を言うのはやめよう」だったり「いろいろな人と関わろう」だったり….。そんな中で、「愚痴を言おう、聞こう」「まずは仲の良い人と話そう」という今回のS君の提案は、自分では提案のできないものだった。そして、S君の提案があったからこそ、子どもたちが思っていたことを吐き出せたのは間違いない。S君が、スタッフが計画したしたグループ分けをその場で覆したのも良かった。今回は、S君に助けられたし、教えられた。帰りの集いの時間に、その感謝の気持ちをS君に伝えにいったら、やっぱり、いまの5・6年生相手にどう話そうかを一生懸命考えてくれた結果らしい。

今回、S君のおかげで表に出てきた声を、スタッフである僕たちがどう受け止めるか、大事だなと思う。受け止めるといっても、単純に彼らの要望に僕たちが応える、というわけではない(もちろん、僕らにしかできないことはあるけれども)。集まった「声」をスタッフと子どもたちの間において、スタッフがどう思っているかも伝えたいし、それをふまえてどうしていくかを話し合いたい。子どもたちだけではいきなり提案にはできなくても、この「声」を中心に置いて話し合うなかで、生まれてくるものはきっとあるはずだから。

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