「好き」は自分を縛る。あらためてかみしめる「好き」と「好奇心」のちがい

今日は僕としては珍しく国語以外の話。先日の研修で、9年生の「そつたん」を担当しているスタッフと話をする中で、自分が担当するテーマプロジェクトと共通の課題を感じた。それは、「自分の好きなことから世界を広げない子たち」の存在。その話から「好き」と「好奇心」の違いをあらためて感じている。参考文献は、市川力『知図を描こう! あるいてあつめておもしろがる』。というか、ほぼその本の紹介に近いエントリです。

写真は霧ヶ峰高原に広がる蝶々深山(ちょうちょうみやま)に至る道。なだらかな丘陵で、イギリス南西部エクセターでの暮らしを思い出させるものでした。

「好き」は自分を縛る

オルタナティブな学校では子どもの「好き」や「やりたい」を大事にするイメージがあるが、実際にそういう学校の一つである風越学園で勤務していると、「好き」を過度に大事にする弊害も強く感じるようになる。簡単にいうと、「好き」は次のような形で自分を縛るのだ。

  1. 「好きなことだけをやりたい」という形で自分を縛る。
  2. 「好きではない」から「やらなくていい/やりたくない」という形で自分を縛る。
  3. 「好きなことが見つからない」から「なにもできない」という形で自分を縛る。

僕はこういう事例を、風越学園で数多く見てきた。「好き」にとらわれて、あるいはそれを言い訳にすることで、何人もの子どもが行動ができなくなる。

もちろん、前提として「好き」なことがあることは素晴らしいし、「好きな気持ち」がプラスに作用することもおおいにある。それは大前提だ。でも、それでも子どもの「好き」を神聖視すべきではない。それは学びに関連する感情の一つにすぎないのであり、内発的動機づけ神話と同様に、子どもの好きを尊重しなければという凝り固まった考えに、大人が囚われてはいけないと思う。

「好き」と「好奇心」の違い

市川力『知図を描こう!』では、こうした「好き」の弊害をわかりやすく書いている。、

「好き」かどうかという思いこみが、かえって学びの広がりと深まりを邪魔することは見過ごされがちです。「好き」だと決めていることには関心を持つけれど、「好きではない」と判断したことには見向きもしない。こう決めつけてしまうことで、「好き」の範囲の世界を自覚せず、自分の外側に広がっている多様な世界に触れないでいると、物事を柔軟に眺められなくなります。(「はじめに」ⅸ)

まさにここに書かれている通りで、「好き」にこだわり、ずっとそればかりやっていると、自分の世界は広がらない。いや、もちろんメタ認知を働かせつつずっとやり続けていれば、いずれそこから他の領域にもつながっていく可能性もあるのだろうが、少なくとも、風越で見る限り、自分の「好き」にこだわっている(好きなことがないという形を含めてこだわっている)子の中には、その結果として世界が広がっていない子がとても多いように思われる。

そして、筆者が代わりに大事にすべきと主張しているのが「好奇心」だ。

「いつもと同じだな」と思えることにちょっとした違いを見出し、「関連がなさそうだな」と思えることに共通する何かを見出すときに作動しているのが「好奇心」です。小さな不思議を感じとるのが「好奇心」と言えるでしょう。「好奇心」をベースにした学びは、私たちヒトの根源的な学び方です。(「はじめに」ⅺ)

好奇心は、好きなことにしばられない。身の回りのことに「「なんか気になる」という「違和感」を抱く心の動き」(「はじめに」ⅹ)だからだ。そして、好奇心を働かせる=面白がることができれば、目の前の風景が違って見えて、そこから問いが生まれ、学びが広がっていく。これは、実は読み書きでも同じだ。「好きな本」だけを読んでいては世界は広がらない。大事なのは、どんな本に対しても、筆者に好意的に「好奇心を働かせる=面白がる姿勢」である。作家の時間でだって、自分の作品を含めた全ての作品に必ず面白さがあるはずだと信じて、自分でそれを見つけ出そうという姿勢が大事だ。これらは全て、「好き」ではなく「好奇心」の働きである。

市川力さんの『知図を描こう』では、その好奇心を働かせる方法として、「知図を描く」ことが提唱されている。それ以降は本書をお読みいただくとして、大事なのは「好き」ではなく「好奇心」なのだということは、今後も、何度も立ち返りたいポイントだ。風越学園で働く期間が長くなるにつれて、僕はそれを強く思うようになった。

 

 

 

 

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