「ふりかえり」とは自己を物語として語ること。その弊害をどう和らげる?

この数週間、風越学園で子供達の「ふりかえり」に触れる機会が多かった。まず僕の受け持つ国語の授業では、56年生の「作家の時間」のユニットが終わりを迎え、10月上旬には子どもが自分の作品プロセスを語る「オーサーズトーク」があった。同じく僕がメイン設計を担当したテーマプロジェクト「火山」も10月下旬にアウトプットの場があって、ふりかえりをしてしめくくった。そして、今週は学園全体の子どもがこれまでの半年の自分の学びについて語る「わたしプレゼン」の一週間があり、先週から子どもはそのためのふりかえり作業をしていた。つまりは10月、風越学園は「ふりかえり」の時期だったのだ。

ただ、自分でやっておきながら、どうもこの「ふりかえり」に対する違和感も、僕は一方で持ち続けている。「作家の時間」という、書き手意識(オーサーシップ)の醸成を柱にする作文教育を展開して、かつ風越学園のような探究を重視する学校に勤務していて、それらとなかばセットで語られる「ふりかえり」に対して違和感があるとは、いったいどういうわけだろう。今日はこの「ふりかえり」について改めて考えてみたいエントリである。

写真はもう三ヶ月前になってしまったけど、夏の尾道にて。妻の実家への帰省の際に立ち寄りました。尾道は坂も多くて生活は大変そうだけど、立ち寄るにはいい場所だな〜。

ふりかえりとは自己の物語化である

僕の認識は、「ふりかえりとは、自己の物語化である」という点からはじまる。ふりかえりは、自分の過去の出来事と現在の認識、そして未来の自分のありようを、一本のストーリーでつなぎ、語ろうとすることだ。それは歴史叙述に似て、体験の断片をもとにした物語の編集作業である。決して生の体験そのものではないが、それを物語ることによって、遡及的に「過去の体験」を構成し、他者や未来につなげる行為である。歴史と異なるのは、振り返りの場合は、記述者としての自己に加えて、記述される体験自体にも自己が深く関わっており、そこで語られるのは自己物語だということだろう。

ふりかえりによって、私たちは「自分に影響した過去の体験」をつくりだし、その延長上に現在の「自分」の意味を確定し、それを他者や未来の自分と共有できるようになる。そのこと自体の価値は間違いなくある。ちょうど歴史が記述されることによって史実となり、他者と共有したり、議論したり、未来について考えたりできるのと同じように。なにより、僕自身のこのブログも要するに書くことによるふりかえりであり、少なくともここ10年以上の僕の教員人生は、ブログに書くことを通してつくられてきた。だから、ふりかえりの良さも当然に実感している。

自己を物語ることの弊害

しかし、ふりかえることが自己の物語化であるなら、そこには当然、物語化の弊害もともなう。ふりかえるときに、僕たちは何についてふりかえり、何についてふりかえらないかを決めている。また、どのようにふりかえるかも決めている。それによって自己物語の内容と方向性がおおよそ定まってしまう。たとえば僕のブログはライティング・ワークショップ(作家の時間)やリーディング・ワークショップ(読書家の時間)の実践が中心だが、それを中心にふりかえり続けることで、僕は自分のアイデンティティをそのように位置付けると同時に、それ以外の可能性を捨ててきた。そうやって、「作家の時間の実践者」という物語的自己像を作り、他の自己像の可能性を失わせていった。

最近読んだ難波優輝『物語化批判の哲学』では、物語化の弊害を「他者を安易に物語的叙述に閉じ込めること」と述べていたが、同様にふりかえりは、自己を安易な物語的叙述に閉じ込めてしまうのだ。異なる選択肢やありえたかもしれない未来が、ふりかえりという「物語化」の作業を経て、見えなくなってしまう。

ちなみに、難波優輝『物語化批判の哲学』では、物語化の弊害を前半で述べた後で、そこから脱するヒントとして「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「おもちゃ」の4つを挙げている。僕は筆者と共通する問題意識はその前からあり、その処方箋を求めて本書を手にとったのだが、残念ながらその4つが具体的にどう物語化に抵抗するアクターとして機能するのかが、僕にはいまいち掴めなかった。でも、関心のある方は読んでみるといいかもしれない

自分の授業でも、僕はオーサーズトークを通して、子どもたちに、「書き手」としての自分をふりかえってもらう。それによって、僕の考える「書く力の基本」であるオーサーシップを醸成しようとしているためだ。でも、オーサーズトークにおける言語化による自己規定が、本人の別の可能性を閉じてしまう危険は常にある。「私はこの作家が好き」「私はこういう書き方が得意」…言葉の力とは恐ろしいもので、語れば語るほど、語る言葉に語り手自身が呑み込まれていくのだ。

他者からの評価の重要性

こういう、自己評価の弊害の話をすると、「だから他者からの評価も大事だよね」という話になる。「あなたはそう言っているけど、見ていた私からはこう見えるよ」とか、「その出来事は別のこういう解釈もできるんじゃないか」と、語り手の物語にいわばツッコミを入れながら、本人の自己評価を修正し、閉じた物語理解を新たに開かせ、「改訂」版を作らせる存在だ。そうやって、物語を本人の意図しない方向への改訂に向かわせる他者の存在は、物語化の弊害を、免れるとは言わないまでも和らげるためには、必須だと思う。

しかし一方で、ふりかえりを他者に開くことにも難しさが伴う。どんなに親しい人であっても、他者に開くことが前提のふりかえりは、他者の視線を意識したものにならざるをえない。まして、物語を「本人の意図しない方向に開かせようとする」他者とは、本人の好む物語や自己像への充足をさまたげる、語り手からすれば「おせっかいでうざったい」存在であるのだ。そこには当然痛みが伴うわけで、お互いの信頼と合意がないと、そのような対話はとてもやっていけないだろう。

パフォーマンスとしての「ふりかえり」

こうした「ふりかえり」の難しさに、学校だとまた別の事情もともなう。学校は、どんなに巧妙にごまかそうとしたところで、大人と子どもの間に歴然とした権力勾配のある場だ(これは認識とか個人の好みの問題ではなく、端的に教師が評価権を持つ事実がそういう勾配を作っている)。したがって、学校で子どもが大人(教師や保護者)に対して語る「ふりかえり」は、権力者である大人向けのパフォーマンスにならざるを得ない。良い子ぶる子どもが悪いのではない。子どもの自覚の有無に関わらず、構造的にそうなってしまうのだ。授業中のふりかえりがなぜ「かったるい」のかという問題について、僕は10年近く前にもブログで書いているが、授業をどう工夫したところでこの権力勾配の事実は変わらない。

「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか

2016.05.05

この勾配を、評価権の存在があるから制度上「消す」のは無理にせよ、少しでもやわらげることはできないのだろうか。それにはまず前提として、この権力勾配を「気持ち」の問題と捉えないことが大事だと思う。つまり「子どもの気持ちに寄り添おう」とか「子どもを理解しよう」とすれば、権力勾配が薄まると勘違いしないこと。子どもを理解しようとする行為自体は別の理由で尊いのだけど、それによって権力差がなくなるわけではないし、むしろ、理解しようとすればするほど、逆に「あの子はこういうタイプだから….」などと、子どもを大人の想定する物語理解のなかに取り込む危険すらあるのだ。それくらいなら、「子ども(というより他者)は理解できないと認めること」「無理に自分の物語的理解に閉じ込めないこと」のほうが、ずっと健全である。

で、もしこの権力勾配を和らげるとしたら、それは、大人の側も「ふりかえり」を他者に、つまり学校では子どもに開いて、子供からの質問を受ける(それを改訂してもらう)ことくらいしかないのかもしれない。制度上子どもは権力者にはなれないが、改訂作業の相互性を保証することで、少なくとも一方的な関係から脱出することはできる。具体的には、スタッフも授業者として(オーサーじゃないけど)オーサーズトークを子どもの前でしゃべる、スタッフも「わたしプレゼン」をして子どもたちに質問してもらう。そんなことである。国語の授業で、教師も必ず一緒の条件で文章を書くことにも、きっと似たような効果はある。

「わたしプレゼン」、スタッフの役割とは?

今週は「わたしプレゼン」を子どもたちにさせていた(と、あえて使役形で書くのが誠実だと思っている)。だからごく自然に、いま書いてきたようなことをなんとなく頭に抱えながら、わたしプレゼンを聞いていた。

勘違いしないで欲しいのだが、前提として、僕は「わたしプレゼン」のように子どもが自分で自分について語る場があることを、大変好ましく思っている。いわゆる通知表などで、数字に重きをおいて教師からの評価のみで成り立つよりも、ずっといい。まして、いま息子が通っている高校の「三者面談」は、いきなり学校の成績やら模試の成績やらを見せられるところから始まるのだ。息子の高校でも、「わたしプレゼン」のような三者面談があったらいいのに、と心から思っている。

ただ、この「わたしプレゼン」が、大人の子どもの間で権力勾配のある、子供からしたら「権力者向けのパフォーマンス」にならざるをえない場であることも事実。そして、そこでのパフォーマンスが子どもの「物語的な自己理解」が形成される契機になるのだとしたら、「わたしプレゼン」の場にいるスタッフは、どういう役割を果たすといいのだろうと迷っている。

以前は僕も、「わたしプレゼン」でのスタンスは基本的にその子の成長を祝福する応援スタンスだった。でも今は、大人がずっと「応援」「祝福」スタンスだと、語り手である子どもたちは、聞き手である大人に祝福されるような自己の物語化をパフォーマティブに形成して、その言葉に呑み込まれていくんじゃないか…そんなことが気になっているわけだ。

だとしたら、応援の役割はもう家族の方にお任せして、僕は子どもたちが語る物語に「改訂」の可能性を示唆するツッコミ役としてその場にいるのがいいのだろうか。とはいえ、そういう「改訂」を迫る存在は、子どもたちからしたら「おせっかいでうざったい」のは間違いない。いや、そういう役割を引き受けるのは全然良いのだけど、パフォーマンスにならざるを得ない場を設定した上で、かつそのパフォーマンスにツッコミを入れるというのは、なんだかマッチポンプな気もしてしまう。

…そんな屈折した思いも抱えつつ、今回、自分の出席した「わたしプレゼン」では、子どもの語るストーリーに全乗りするのではなく、少し角度を変える質問をしようと心がけてはみたのだけど、さて、どうだったのかな。問題意識があったといっても、思うほどには何もできないものだ。

自分も「ふりかえり」とどうつきあおう?

というわけで、今の僕は、ふりかえりを通した自己の物語化が自分の人生を進めるエンジンになることも、それに弊害があることも、どちらも実感として持っている。それは、物語という強力で厄介な世界認識の枠組みとどう付き合ったらいいのだろう、そのために子どものうちにどんな経験が必要なのだろうという、自分の国語教師としての関心とも通底している。

このエントリでは主に学校の授業でのふりかえりについて書いてきたが、自分自身のことも考えないといけない。自分はこうやってブログを書く(ふりかえりを書く)ことで自分の教員人生を物語化してきたのだけど、考えてみたら、その物語に「改訂」を迫る存在を身近に置いてこなかった。書く話題も自分の書きたいことに限られてきた。「書きたいことを、書きたいように書く」という、ライティング・ワークショップの標語を自分で否定するようで変な話だが、書きたいことを書きたいように書いていたら、ふりかえりはどんどん自己充足的に閉じていく一方だとも思う。自己物語の「改訂」を自分に迫ってくれる存在をどう自分のそばに置くか、それが今後の自分にとって大事なのかもしれない。

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