最近土日に予定が詰まっていたせいでしばらく前のことになるのだけど、10/19(日)『ライティング教育の可能性』のオンライン書評会に参加しました。本の著者の方の多くが揃っての書評会。僕も亘理陽一先生(中京大学)とともに書評者として登壇させてもらいました。今日はその日の話題に関連したエントリ。
アカデミックとパーソナルを架橋するものとは?
下記のブログ記事に書いた通り、僕は本書の表テーマが「アカデミックとパーソナルの架橋」なのであれば、裏テーマは「初等中等教育のライティング教育と高等教育のライティング教育の架橋」だと考えています。書評会でもその立場から本書の持つ可能性を評価して、結局のところそれらを架橋するものとは何なのか、という問題提起をさせてもらいました。
文章指導の「型」をめぐって
でも、今回のエントリで取り上げたいのは別の話。当日、松下佳代先生(京都大学)が話題にした「型」についての話です。松下先生は、本書ではルーブリックの「飼い慣らし方」を提案し、書評会でもまず「型にこだわっている。型を身につけた上でそこからどう自由になっていくかというところに関心がある」とおっしゃっていました。
このブログを読んでいる方ならご存知のとおり、僕自身はいわゆる「型」、たとえば「はじめ・なか・おわり」とか、5パラグラフエッセイのような構成の型を、ほとんど重視しません。それは、自分の予備校バイト時代の経験の影響です。当時、受験小論文の書き方として「◯◯式小論文」という有名な型があり(今もあるのかも)、それを使って大量生産されたつまらない文章を読み続けたことへのうんざり感が、僕の文章指導の出発点にあるです(笑)
型は「入門」意識がある者に有効?
もっとも、全ての「型」が不要だと言いたいのではありません。「型」についてはときおり武道の比喩で「型破り」と「形無し」の違いが言及されますが、いみじくも武道の比喩が使われる通り、「型」とは、入門者が師匠に弟子入りする場面でこそ有効なのだと考えています。そもそも、型で大事なのは、「型」そのものよりも、型の背後にある思想。入門者は、師匠から型を教わり、それを身につけることを通して、型の先にある武道の思想を心身をフル動員して想像し、試行錯誤を繰り返しながら身につけていく。大事なのは、型の先にある師匠やその道の思想に自分の身を投じる意識を持ちながら、その手段として型を真似ることなのです。逆に言えば、その思想をさぐる意思が入門者の側にないと、「仏作って魂入れず」のように、本当にただ「型」を習得しただけで終わります。
僕も、前者のケースであれば、つまり、学習者が型の習得を通してその型が持つ背景の文脈を探り、それに自分の身を投じる意識があるのなら、型の学習はとても有効だと思います。例えば、研究者を志す学生が研究室の先生から論文の書き方の型を教わる…みたいなケースでは、それが効果的でしょう。ところが、残念ながら、学校の教室にいる児童生徒には、そんな「入門」意識がない子がほとんど。型を教えても、その型の背景を考えようともせず、文字通り、ただ「型通り」書いて終わり、になると思います。
何をもって「型」とするのか?
また、型の話題は、何を「書くことの基本」と考えるかにも関係する話題です。型の重要性を主張する方の中には「まずは基本の型を学んで、それから自己流に…」という人もいます。ですが、「基本の型」とはなんでしょうか。少なくとも、たとえば小学校の定番「はじめ・なか・おわり」が文章を書く基本の力だとは、僕は全く思いません。あれは、やや辛辣な言い方を承知でいえば、教員が教えた気になるための方便であり、実際の書き手が「はじめ・なか・おわり」という型を身につけてから文章を書けるようになったわけではないのです。「まず筆者の意見を引用して、次にそれに対する問いをたて…」でも「たしかに…しかし…」でもいいのですが、およそ「型」と言われるものは、すべて後付けで見出されたものです。ひどいのになると、編集者の意図する「型」に沿った文章だけ意識的に集めた問題集をつくって、「文章にはこのような型がある」と言う人もいかねない。実際には、その型から外れた文章だって、やまほどあるにもかかわらず、です。たしかに人間に共通する思考パターンや説得のパターンはあるので、型だって知らないよりも知っているほうが便利でしょうが、型とはその程度のことではないかと思います。
僕の場合は、むしろ、「自分が読んでいる文章に、自分の好きな『良さ』を見出して、それを自分が書く時にも真似してみる」ことを、自分の授業では強く勧めています。考えてみると、そうやって読むことと書くことをつなげることが、自分の作文授業におけるライティングの「型」だと言えるかもしれません。さきほど僕は「入門意識のない者には型を教えても意味がない」というふうに書いたけれど、実際には、僕は「はじめ・なか・おわり」などとは別のかたちで型を教えているのかもしれません。文章構成の型ではなく、文章作成プロセスや文章を書く構えにおける「型」とでもいうべきものを、です。
ルーブリックの効用、型の効用
ここまで、型についてつらつらと書いてきましたが、最後に読書会で印象的だった松下先生の言葉を記しておきます(以下、自分のメモと記憶に頼っているので、言葉そのままではありません)。まずルーブリックについて、「現状の政策がある中で、教育評価に直面してもがいている先生方に、どうしたらそれを乗り越えていけるか、そこの力になりたい」(大意)とおっしゃっていました。たしかに現状、たとえば「思考判断表現」や「学びに向かう力」をどう評価するんだとういうところで、業者テストに丸投げしたり、ノート提出や挙手の回数で評価したりしている教員もたくさんいるわけです。ただでさえ残業に追われて勉強する間もない教員がそういうかたちで評価せざるをえないよりは、たとえ理想的な使い方ができないにせよ、ルーブリックのほうがいい。そういう、「教員を守る手段としてのルーブリック」という観点で話をしていた気がします。
また、型についても、「共同体に支えられていない場では、書き手が型をもつことが公共への入り口になる」(大意)という言い方もしていました。詳しいことは聞いていないので自分の想像になるのですが、書き手同士がお互いに支え合うコミュニティが成立していない場合や、極端な場合は当該の書き手がそのコミュニティ内で抑圧されている場合、書き手が自分の「声」を場に届けるためには、公共性をもった言葉を発する必要に迫られます(他者が書き手の言いたいことを好意的に察してくれることが期待できないので)。その時、「これを満たしていれば言説の公共性が認定される」型があることは、書き手にとっておおいに力になるはずです。
これらは、いずれも僕には抜け落ちていて、かつ重要な指摘だったと思います。そのような点からルーブリックや型の価値を考えることもできるのかと新鮮でした。こうした指摘を自分の「型」観の中にどう落とし込んでいくのかは、今後の自分の課題だと思います。
今回の書評会、他にもいわゆる実務家教員のライティング直面問題とか、いくつも勉強になることがあったのだけど、このブログで書くのは、型をめぐるこの発言だけにしておきます。いずれにせよ、ライティングについて研究する先生方とお話できて、充実したひとときでした。参加されていた石田智敬先生の石田智敬『学習評価論における質的判断アプローチの展開』は、自分でもぜひ読んでみたいと思います。


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