生成AIは書くことの教育をどのように変えるのか? 全国大学国語教育学会・早稲田大会から。

もうだいぶ前の話になってしまうけど、11月23日(日)に全国大学国語教育学会(早稲田大会)の2日目に行ってきました。午前中は課題研究発表「国語科教育研究の存立基盤 <環境>としてのテクノロジー」に出て、午後の自由研究発表は「書くこと」についての研究発表が集まった分科会に参加。どうせ東京に行くなら二日間参加したかったのだけど、一日だけでも楽しめました。今回はその感想をメモします。

写真はこの秋の山歩き中に発見したきのこ。あまりにもきのこで、思わず写真にとってしまった。

生成AIの話題が書くことの教育のトレンドに?

今回の学会、課題研究発表といい、自由研究発表といい、生成AIをどう使うかが現場の中で確実にトレンドになっていることを感じる学会だった。以前は「その界隈で有名な先生たちが実践発表していた」印象だったのだけど、今回は「書くこと」の分科会でも複数の生成AI関連の発表があり、リアルな現場の課題になっていることがうかがえた。

生成AIをめぐる課題研究発表

課題研究発表は、言語学者・川添愛さんの「「書くこと」と生成AI  ーAIによって何が奪われるかー」、国際大学GLOCOMの豊福晋平さんの「デジタル・シティズンシップと学びの公共圏」、笠原諭さん「生成AIに出会った高校現場で、何が起こっているのか」の三本。シンポジウム形式の難しさで、三者の議論がどうつながるのかはちょっととらえにくいところもあったかな。それぞれの方の発表内容を詳しく書くことはできないので、ここでは、みなさんの議論を聞きつつ、漠然と考えたことをメモしようと思う。

川添さんのAIへの懐疑的な姿勢(副題からも明らかだ)は、実は個人的感覚としてはもっとも共感できる。僕自身、書くことの力点を「伝達」よりも「発見」や「自己形成」に置く立場なので、その作業プロセスを外注することで棄損される経験が気になってしまう。また、現実におきている「生成AIへのレポート代行」問題も、「だからレポートという形式をやめて口頭試問などに変更すれば良い」とする向きもあるが、口頭試問では書くよりも論理性のチェックがゆるゆるになるので、それで思考を鍛えるのは難しい。とすると、生成AIと学校における「書くこと」の付き合い方はやはり難しいものがある。

とはいえ、現実的に禁止しても仕方ない(というかできない)現実もあって、その現実を視野に入れつつ「そもそもテクノロジーが国語科教育研究の基盤となる環境をどう変えてきたのか?」を論じたのが、豊福さんの発表だった。ある意味で今回のテーマの中核をなす部分である。活版印刷術の次に来たデジタルテクノロジーが公共圏をどう変えてきたかを論じて、その枠組みの中で生成AIを「代行者」ではなく「協働者」として位置付ける提案は、まあ妥当なものだと思う。自分はいま小学生担当だからすぐには生成AIを「協働者」として使うことにも積極的ではないのだけど、高校生くらいを担当したらやってみたいところだ。

で、その実践の参考になるのが笠原諭さんの発表。豊福さんの社会モデルをベースにしつつ、生成AIを扱うリテラシーと国語の授業のどちらも両方取りに行く実践が報告された。「人工知能と人間を考える」単元は、シンプルに現代文の授業としてよくできているのと、デジタル・シティズンシップ教育としてプロンプトの書き方まで教える丁寧さに驚く。あと最終レポートを支援する「最終課題執筆支援GEM」は、自分でもこういうの作りたいのでぜひ詳細を知りたいところ。こういうGEMを作って配布して、そのチャットログをレポートと一緒にあわせて出して貰えばいいのかな?

とまあ、生成AIによって書くことの教育はどう変わるのかを考えながら、お三方の発表を聞いていた。これからは実際の運用の上では「代行者ではなく協働者に」という位置付けが大事なのはもちろんのこと、書き手としての自分の軸を育てる意識が大事なんだろうな。たとえば、自分の書いたものの公開範囲を自分で決められること、他者の表現を侵害しないことのような、デジタルテクノロジー時代には必須の倫理的態度も、書くことの教育の範囲に入ってくるのだろう。

都留文科大学・野中先生のnoteから

ちょっと雑談的になるが別の話題を。この大会の初日の「印象記」を都留文科大学の野中さんが書かれている。その中で、「形式主義的な原稿音読発表ではなく、動画視聴を前提とした議論の時間をとるべし」と主張されていたことについて、これも、広い意味でデジタルがらみの話題なので触れておきたい。

「全国大学国語教育学会@早稲田大学」Day 1 印象記

https://note.com/nonaka_jun/n/n939c91155506?sub_rt=share_pb

実は僕はこの野中先生の意見には賛同はしておらず「この形式の不条理は明白」とは全く考えていない。というのも、僕もこの学会に初めて出た20代の頃は、この「原稿音読発表」に「この人たちプレゼンこんな下手なの?どうして?」と悪い意味での衝撃を受けたのだけど、その後、自分の認識のほうが変わった経緯があるのだ。

学会はプレゼンの場ではなく、「論文化を視野に入れた議論の共同生成の場」である。それなら見せ方でいくらでもロジックの甘さをごまかせるプレゼンや動画よりも、地味に、けれど原稿の前後を手軽に行き来しながら丹念にロジックを追える「原稿」の方が良い。加えて「音読」も、発表者や聴衆が、黙読よりも意図的にスピードを落として丁寧に議論を追うための手続きなのだと、いまの僕は解釈している。原稿を事前に渡されたって実際には読まない人が多いだろうし、ましてや動画でそれをされても、それこそ「形式主義的な動画発表」になるのでは…と考えている。実際、僕も全国大学国語教育学会の研究部門委員を務めた時、公開講座の当日前に視聴する事前レクチャー動画を作ったのだが、残念ながら当日の参加者でそれを見てくれる方は少数だった。反転授業の失敗と同じことが、学会でも起きるのだと思う。

というわけで、野中先生の提案には僕は賛成しないのだけど、でも、いろいろな可能性を探る意味で、動画事前視聴必須のセッションを作ってみれば良い。まずはラウンドテーブルなどがやりやすいんじゃないだろうか。おそらく野中先生の批判意識は、「論文」という「書くこと」に支えられた知の生産システム自体に対して「生成AIの時代にそれでいいのか」と問いたい部分があるのだろうし、他にも提言していることもあるので、興味のある方はリンク元をごらんいただきたい。

というわけで、今更だけど早稲田大会に一日だけ参加した感想記でした。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です