風越学園の国語の授業では、僕は6・7年生を担当している。「作家の時間」(ライティング・ワークショップ)の1回目のサイクルではエッセイを書いて、次は詩を書く予定。詩の授業は僕が風越学園で頑張りたい実践の一つで、今も校内サイトで毎日詩を一つアップしている。ただ、一言で「詩を書く」と言っても、そこには様々な授業の作り方がある。自分の理解のために、詩を書く授業のいくつかのアプローチを整理してみた。参考になったら嬉しいけど、このエントリはあくまで自分の考えを整理するためのものなので、抜けや漏れもありそうで、あまり参考にならないかもしれない(汗)
目次
1:自由に書く
まずは「とにかく自由に書こう!」という方法。創作ノートを渡して、それを片手に気づいたことや感じたことをメモしていき、そこから詩を組み立てていくのもこのパターンの一つだろう。
実際に日常的に詩を書く人達にはこのパターンの人が多そうな気もするし、書き手の思いを最も大事にするアプローチでもある。しかし、授業という点では、これだけだと自由すぎてうまく行かないことも多いかも? 何もないところで「自由に詩を書こう」と言われても、出来上がるのはただの行分けされた散文になってしまう危険性が高そうだ。これは学校で詩を書くってどういうことかという考えと関わるのだけど、少なくとも僕は「誰でも思ったことを素直に書けばそれが詩になる」という立場を取らないので、「自由に書こう」だけだと、詩をわざわざ学ぶ意味はほとんどないような気がする。
個人的には、このパターンの授業は詩の授業の入口というより出口。多くの生徒が詩を書く経験を積んだ後で到達する目標となる授業ではないかな。そうでなければ、ジャンルとしての詩の特性を無視して「文章を書き慣れる」手段として詩を使う場合かもしれない。特に小学校低学年の子どもや、書くのが苦手な子は、長い文章を書けない。詩を書く方が分量も少ないので、その点でのハードルは低い。だから、書かれたものが「行わけされた作文」になることは百も承知で、とにかく書き慣れる方法として詩を使う、というものだ。その意図で「とにかく自由に書く」のはありだと思う。
2:着想を与える
2つめは、完全に自由にするのではなく、創作の刺激となるものを与える方法。例えば、次のような例が考えられる。
- 物語や短歌をもとに詩を書く(翻作する)
- 写真、絵、色、音などをもとに詩を書く
- 特定の事物(木とか生き物とか文房具とか)をもとに詩を書く
詩に限らず、何かを書くときに一番難しいのはアイデア出しの部分なので、そこを助けることで創作の負担を減らすアプローチだ。ただ、このアプローチだけだと、やはり書かれるジャンルが詩である必然性があまり感じられない。
3:鑑賞から創作へ
3つめは、モデルとなる詩作品を示す方法。モデル作品の鑑賞を自分の創作に繋げる方法で、個人的には詩の創作としては一番オーソドックスな授業だと思う。この中でも、さらに色々なパターンが考えられる。
- 詩作品(複数)をモデルとして与えて、それらを参考にして自由に書く。
- モデルとなる作品の技法を分析して、その技法を使って自分で詩を書く。
- モデル作品の一つの連や一部分を使って、それを手掛かりに書く(穴埋め短歌もこの一類型と見ることもできそう)。
- モデル作品への「返歌」(返詩?)や「続き」となる詩を書く。
- モデル作品と似たモチーフの詩を書く(光村の小学校4年の「のはらうた」のようなやつ)。
この場合はモデル作品として、J-POPの歌詞を使ってもいいと思う。自分の好きな歌詞で使われている技法を分析して自分でも詩を書いたり、もとの歌の世界観を踏まえて好きな歌詞の続きを書いたりする。まあ、詩であれ歌詞であれ、すでに使われている技法や型があるので、その技法や型を学びつつ、それを手掛かりにして自分の創作に向かっていく手法と言えそうだ。
4:言葉のティンカリング
4つめは、「言葉のティンカリング」から始める方法。言葉のティンカリングとは、「言葉をいじりまわす」こと。例えば言葉を組み合わせて普通ではありえない表現を作るなど、言葉の音や形を使って試行錯誤を繰り返すプロセスを経験することから、創作につなげていく。イメージとしては図工の造形遊びに近く、良い作品を作ることではなく、言葉で遊ぶことが中心になる活動だ。もっとも簡単な「言葉のティンカリング」と言えば「しりとり」だが、このような言葉遊び的要素を取り入れて、言葉を組み合わせて非日常的な新しい世界を作ることを体験するのがこの手法の目的と言えるだろう。
- 必ず韻をふむなどの一定の言語使用のルールのもとで詩を書く
- アクロスティック(折句)で詩を書く
- 偶然性を使って詩を書く(ラッキーディップや言葉のボウルなど)
- アクロスティック…指定された言葉を使って詩を書く。通常、冒頭のことが多く、例えば矢川澄子「おりひめ」だと「おお むねはおどる/りりしいおすがた/ひたすらまちわびた/めぐりあいのとき」で、詩の各行の先頭の一文字を繋げると「おりひめ」となる。
- ラッキーディップ…複数の詩の行をバラバラにして、ボウルの中に入れ、そこからいくつか取り出した行を組み合わせて詩を組み立てる。
- 言葉のボウル…ボウルの中に「形容詞」「名詞」などを書いたカードを入れて、そこから取り出したお題や言葉を使って詩を書く(「ぬめぬめ」「鉄」のカードを取り出したら、「ぬめぬめの鉄」というテーマで詩を書く、など)
この方法では、外部からの強制や偶然の力を使って、半ば無理やりに詩を作ることになる。その無理やりの過程で言葉を試行錯誤するのが目的なので、結果として書かれた詩作品の出来よりも、一定の制約の中で言葉をいじりまわすプロセスに焦点が当たる。詩を個人の感性の発露と捉える人の中には、こうした外部からの強制や偶然が自由に感じられず嫌だなあという人もいるかもしれない。でも僕個人はもともと、詩という言語形式の特徴は、人間が意図した意味の伝達を超えて、言葉が自立して世界を創造するところにもあると考える。だから、こういう観点のアプローチも面白いなあと思ってるし、魅力的だ。
そもそも詩創作を学校で扱う目的は?
さて、ここまでざっくり4つのアプローチについて書いてきた。
- 自由に書く
- 着想を与える
- 鑑賞から創作へ
- 言葉のティンカリング
こうして書いて改めて思うのは、どのアプローチをとるかは、「なぜ詩創作の授業をするか」という詩創作の目的に直結するということだ。国語教育は別に詩人を育てる場ではないから(というか、それは無理だろう)、国語教育の特定の目的のために詩という文学形式を(あえて嫌な言い方をすれば)「利用」しているにすぎない。その利用の目的次第で、詩の創作の授業のアプローチも随分変わるはず。例えば、詩を書くことを、子どもの自由な感性を認めて伸ばす場として捉えるのであれば、1:自由に書くアプローチや、そのきっかけとしての2:着想を与えるアプローチをとるだろう。詩を書くことを読むこととの連続性で捉えて、詩の読み書きを通じて表現のレトリックを学ぶことを主目的にするのであれば、3:鑑賞から創作へのアプローチをとるかもしれない。詩創作の意義を、日頃使っている言葉を違った角度から捉えて、言葉で試行錯誤することに見いだすのであれば、4:言葉のティンカリングのアプローチをとるだろう。
もちろん、これらの目的は、どれか一つを選ばないといけないわけではないし、「自由な感性の発露」「表現のレトリックを学ぶ」「言葉を日常と違った角度から捉え直す」は、いずれも詩創作の大切な目的になり得る。僕個人は、自由な感性というだけで国語で詩の創作を扱うのは苦しい(生徒の内面に踏み込みすぎているし、何を学ぶのかが明確でない)と感じるけれど、それすら僕の好みである。この3つをどう組み合わせるか、長い目で見た時に、詩創作を通じてどういう言語経験を作っていくか。そういう視点で詩創作の授業を組み立てていく必要があるのかもしれない。個人的には、最初は出来上がった作品の優劣を気にせずに言葉をいじって楽しむ「言葉のティンカリング」から始めたいのだけど、そこからどう創作や鑑賞にもつなげていくのか、まだ道筋はきれいには見えていないなあ…。というところで、今日はひとまずここまで。