「詩の書き方」をどう教える? 4つのアプローチを整理してみた。

風越学園の国語の授業では、僕は6・7年生を担当している。「作家の時間」(ライティング・ワークショップ)の1回目のサイクルではエッセイを書いて、次は詩を書く予定。詩の授業は僕が風越学園で頑張りたい実践の一つで、今も校内サイトで毎日詩を一つアップしている。ただ、一言で「詩を書く」と言っても、そこには様々な授業の作り方がある。自分の理解のために、詩を書く授業のいくつかのアプローチを整理してみた。参考になったら嬉しいけど、このエントリはあくまで自分の考えを整理するためのものなので、抜けや漏れもありそうで、あまり参考にならないかもしれない(汗)

トップ画像は内容とまるで関係ないんですけど、このたび43歳の誕生日を迎えまして、同僚が素敵なイラストを描いてくれたので、嬉しくて載っけてしまいます(笑)

このエントリの後半に、横濱崇之さんによるコメントをいただきました(7/14追記)

1:自由に書く

まずは「とにかく自由に書こう!」という方法。創作ノートを渡して、それを片手に気づいたことや感じたことをメモしていき、そこから詩を組み立てていくのもこのパターンの一つだろう。

実際に日常的に詩を書く人達にはこのパターンの人が多そうな気もするし、書き手の思いを最も大事にするアプローチでもある。しかし、授業という点では、これだけだと自由すぎてうまく行かないことも多いかも? 何もないところで「自由に詩を書こう」と言われても、出来上がるのはただの行分けされた散文になってしまう危険性が高そうだ。これは学校で詩を書くってどういうことかという考えと関わるのだけど、少なくとも僕は「誰でも思ったことを素直に書けばそれが詩になる」という立場を取らないので、「自由に書こう」だけだと、詩をわざわざ学ぶ意味はほとんどないような気がする。

個人的には、このパターンの授業は詩の授業の入口というより出口。多くの生徒が詩を書く経験を積んだ後で到達する目標となる授業ではないかな。そうでなければ、ジャンルとしての詩の特性を無視して「文章を書き慣れる」手段として詩を使う場合かもしれない。特に小学校低学年の子どもや、書くのが苦手な子は、長い文章を書けない。詩を書く方が分量も少ないので、その点でのハードルは低い。だから、書かれたものが「行わけされた作文」になることは百も承知で、とにかく書き慣れる方法として詩を使う、というものだ。その意図で「とにかく自由に書く」のはありだと思う。

2:着想を与える

2つめは、完全に自由にするのではなく、創作の刺激となるものを与える方法。例えば、次のような例が考えられる。

  • 物語や短歌をもとに詩を書く(翻作する)
  • 写真、絵、色、音などをもとに詩を書く
  • 特定の事物(木とか生き物とか文房具とか)をもとに詩を書く

詩に限らず、何かを書くときに一番難しいのはアイデア出しの部分なので、そこを助けることで創作の負担を減らすアプローチだ。ただ、このアプローチだけだと、やはり書かれるジャンルが詩である必然性があまり感じられない。

3:鑑賞から創作へ

3つめは、モデルとなる詩作品を示す方法。モデル作品の鑑賞を自分の創作に繋げる方法で、個人的には詩の創作としては一番オーソドックスな授業だと思う。この中でも、さらに色々なパターンが考えられる。

  • 詩作品(複数)をモデルとして与えて、それらを参考にして自由に書く。
  • モデルとなる作品の技法を分析して、その技法を使って自分で詩を書く。
  • モデル作品の一つの連や一部分を使って、それを手掛かりに書く(穴埋め短歌もこの一類型と見ることもできそう)。
  • モデル作品への「返歌」(返詩?)や「続き」となる詩を書く。
  • モデル作品と似たモチーフの詩を書く(光村の小学校4年の「のはらうた」のようなやつ)。

この場合はモデル作品として、J-POPの歌詞を使ってもいいと思う。自分の好きな歌詞で使われている技法を分析して自分でも詩を書いたり、もとの歌の世界観を踏まえて好きな歌詞の続きを書いたりする。まあ、詩であれ歌詞であれ、すでに使われている技法や型があるので、その技法や型を学びつつ、それを手掛かりにして自分の創作に向かっていく手法と言えそうだ。

4:言葉のティンカリング

4つめは、「言葉のティンカリング」から始める方法。言葉のティンカリングとは、「言葉をいじりまわす」こと。例えば言葉を組み合わせて普通ではありえない表現を作るなど、言葉の音や形を使って試行錯誤を繰り返すプロセスを経験することから、創作につなげていく。イメージとしては図工の造形遊びに近く、良い作品を作ることではなく、言葉で遊ぶことが中心になる活動だ。もっとも簡単な「言葉のティンカリング」と言えば「しりとり」だが、このような言葉遊び的要素を取り入れて、言葉を組み合わせて非日常的な新しい世界を作ることを体験するのがこの手法の目的と言えるだろう。

  • 必ず韻をふむなどの一定の言語使用のルールのもとで詩を書く
  • アクロスティック(折句)で詩を書く
  • 偶然性を使って詩を書く(ラッキーディップや言葉のボウルなど)
  • アクロスティック…指定された言葉を使って詩を書く。通常、冒頭のことが多く、例えば矢川澄子「おりひめ」だと「おお むねはおどる/りりしいおすがた/ひたすらまちわびた/めぐりあいのとき」で、詩の各行の先頭の一文字を繋げると「おりひめ」となる。
  • ラッキーディップ…複数の詩の行をバラバラにして、ボウルの中に入れ、そこからいくつか取り出した行を組み合わせて詩を組み立てる。
  • 言葉のボウル…ボウルの中に「形容詞」「名詞」などを書いたカードを入れて、そこから取り出したお題や言葉を使って詩を書く(「ぬめぬめ」「鉄」のカードを取り出したら、「ぬめぬめの鉄」というテーマで詩を書く、など)

この方法では、外部からの強制や偶然の力を使って、半ば無理やりに詩を作ることになる。その無理やりの過程で言葉を試行錯誤するのが目的なので、結果として書かれた詩作品の出来よりも、一定の制約の中で言葉をいじりまわすプロセスに焦点が当たる。詩を個人の感性の発露と捉える人の中には、こうした外部からの強制や偶然が自由に感じられず嫌だなあという人もいるかもしれない。でも僕個人はもともと、詩という言語形式の特徴は、人間が意図した意味の伝達を超えて、言葉が自立して世界を創造するところにもあると考える。だから、こういう観点のアプローチも面白いなあと思ってるし、魅力的だ。

そもそも詩創作を学校で扱う目的は?

さて、ここまでざっくり4つのアプローチについて書いてきた。

  1. 自由に書く
  2. 着想を与える
  3. 鑑賞から創作へ
  4. 言葉のティンカリング

こうして書いて改めて思うのは、どのアプローチをとるかは、「なぜ詩創作の授業をするか」という詩創作の目的に直結するということだ。国語教育は別に詩人を育てる場ではないから(というか、それは無理だろう)、国語教育の特定の目的のために詩という文学形式を(あえて嫌な言い方をすれば)「利用」しているにすぎない。その利用の目的次第で、詩の創作の授業のアプローチも随分変わるはず。例えば、詩を書くことを、子どもの自由な感性を認めて伸ばす場として捉えるのであれば、1:自由に書くアプローチや、そのきっかけとしての2:着想を与えるアプローチをとるだろう。詩を書くことを読むこととの連続性で捉えて、詩の読み書きを通じて表現のレトリックを学ぶことを主目的にするのであれば、3:感傷から創作へのアプローチをとるかもしれない。詩創作の意義を、日頃使っている言葉を違った角度から捉えて、言葉で試行錯誤することに見いだすのであれば、4:言葉のティンカリングのアプローチをとるだろう。

もちろん、これらの目的は、どれか一つを選ばないといけないわけではないし、「自由な感性の発露」「表現のレトリックを学ぶ」「言葉を日常と違った角度から捉え直す」は、いずれも詩創作の大切な目的になり得る。僕個人は、自由な感性というだけで国語で詩の創作を扱うのは苦しい(生徒の内面に踏み込みすぎているし、何を学ぶのかが明確でない)と感じるけれど、それすら僕の好みである。この3つをどう組み合わせるか、長い目で見た時に、詩創作を通じてどういう言語経験を作っていくか。そういう視点で詩創作の授業を組み立てていく必要があるのかもしれない。個人的には、最初は出来上がった作品の優劣を気にせずに言葉をいじって楽しむ「言葉のティンカリング」から始めたいのだけど、そこからどう創作や鑑賞にもつなげていくのか、まだ道筋はきれいには見えていないなあ…。というところで、今日はひとまずここまで。

横濱嵩之さんのコメント(7/14追記)

上記の文章について、大学院で詩の創作に関する修士論文を書かれ、今は公立中学校で勤務されている若手の先生、横濱嵩之さんから、ありがたくも長文のコメントをいただきました。大変有益な内容と思いますので、
ご本人の許可を得て、ここにそのまま転載します。ただし、太字はあすこまが「へえー」「なるほど」と思った重要箇所です。

①詩創作のアプローチについて

1:自由に書く

 「1自由に書く」は主に小学校の教室での実践が豊富です。あすこまさんが「少なくとも僕は「誰でも思ったことを素直に書けばそれが詩になる」という立場を取らないので、「自由に書こう」だけだと、詩をわざわざ学ぶ意味はほとんどないような気がする。」とおっしゃっている通り、このアプローチでは「国語科教育(言語教育)としての学習目的」の優先順位が低いと思われます。特に小学校低学年では、戦前から続く「児童詩教育」の流れを汲んでいるため、「書かれた作品が詩であるかどうか」という観点を重視しておらず、「子どもの内面の発露=詩情の発露=詩創作の意義→教師・級友による作者の内面の理解に資する」ことが「詩を書く意味」として受け取られています。児童詩と一言で言っても様々な流派があるのですが、少なくとも、現代の小学校の担任の先生方が自分の学級で詩を書く実践をするときには、内面理解を実践の意義としてとらえている方が多いように思います(『月刊国語教育研究』の実践報告などを見てもその傾向があります)。
 一方で、「個人的には、このパターンの授業は詩の授業の入口というより出口。多くの生徒が詩を書く経験を積んだ後で到達する目標となる授業ではないかな。」に関しては、発達段階の問題があると考えます。中学生や高校生が(仮に、ライティングワークショップなどで)さまざまな詩創作の方法を試させられ(特に、中高の授業では「学習の目的」に沿った創作方法を指定されることが多いので)、それでもめげずに詩創作の経験値を積んだとき、「自由に書かせてくれ!」という思いが出てくると、それはこのアプローチの「ゴール(出口)」といえるかもしれません。先生もご経験がおありかと思いますが、中学校で創作の授業をすると、「自由に書きたい」子と、「自由にと言われても書けない」子が混在しています。
 

2:着想を与える

 「2着想を与える」は、主に中学校の教科書教材に特徴的です。公立中学校の授業ではとにかく授業時数が足りないので、よっぽど詩創作に思い入れのある場合を除いて、詩創作活動もプラスアルファ的に扱わざるをえません。また、小学生とは違って詩を書くことに抵抗があり、生徒間の学力差も激しいです(ここは現在、非常に悩んでいます)。そこで、「着想を与える」アプローチが用いられます。スタート地点を同じにしつつ、相互鑑賞、相互評価しやすいのが特徴です。「詩を書くことのハードルを下げる」という意味で、「何かを書くときに一番難しいのはアイデア出しの部分なので、そこを助けることで創作の負担を減らすアプローチだ。」というあすこまさんのご指摘通りだと私は思います。
中学校の教科書教材については、昨年末に拙稿にまとめましたので、もしよろしければご覧ください。

3:鑑賞から創作へ

 「3鑑賞から創作へ」は、「詩を書くことのハードルを下げる」意義のほかに、「詩の表現技法を学ぶために」という側面が大きいと思われます。元の詩の型を用いて創作すると(嫌な言い方ではありますが)自動的に「表現技法の使用」が行われます。現場では、詩という芸術作品を「評定」(数値)に反映しやすいこともあり、「国語科で詩創作を行う意味」を追求している実践家の方はこのアプローチを多用している印象があります(ソースを示せなくてすみません)。
 

4:言葉のティンカリング

「4言葉のティンカリング」は、個人的に一番好きな方法です。私自身は、言葉の意外な組み合わせや題名から物語やアイデアを構想していく性分なので、授業を作るときも「単元名」から発想していきます。詩の特徴ともいえる「詩人独特の感性」を、(言い方は適切ではありませんが)手っ取り早く、生徒に提供できる方法なのかなと思います。私も昨年度の授業で、「辞書を二回引いて、出てきた言葉を組み合わせて詩の題名にする。題名からイメージマップを作って詩にする。」という実践を行いました。
(山元隆春・中井悠加(2013)「詩を作る」、『月刊国語教育研究498号』、pp.64-65 を参考にしました。「詩のボウル」のワークショップの報告文です。)
アクロスティックは、「自分の名前のアクロスティックで自己紹介をする」という実践を3年前から続けています。先生がご指摘の通り、頭文字の言葉を辞書で探したり、それを文にしていったりする中で、言葉の試行錯誤をしている様子がわかります。大人だと、詩を書くとき、初稿を書きあげてから言葉を吟味したりしますが、中学生ぐらいの生徒だと、あまり「吟味」まで辿り着きません。そんなとき、「4言葉のティンカリング」の経験値があると、吟味の指導がスムーズに行きそうです。どちらかといえば、自力で吟味できるようになってもらうためのステップの一つかなと私は思っています。

②アプローチの使い分けについて

 ブログを拝読して、私もあすこまさんとほとんど同じ考え方で使い分けていると思いました
 今、現場で実践していて感じるのは、現場で出会うほとんどの国語の先生が「3鑑賞から創作へ」の「表現技法の使用」を目的に、「評定」をつけることを見越して詩創作の授業を行っていることへのジレンマです。それが悪いわけではないのですが、「アプローチのブレンド」を全く想定しない授業の作り方をしているために、「詩を書く」ということの面白さを伝えきれていない気がします。
 また、教科書単元に沿う傾向が大きい公立中学校では、3年間で詩創作を扱う機会が一度だけということがほとんどです。「アプローチのブレンド」どころか、「1種類のアプロ―チ」で終わってしまいます。
 私はこのような状況を、悲しく思っています。「書けばなんでも詩になる」という風潮をよしとしているわけではないのですが、やはり私は、「生徒が自分で書いたものに愛着を持ちやすい」ものとして、詩というジャンルを推したいと思っています。詩は、明確な定義づけが難しいジャンルです。だからこそ、正解がなく、生徒自身も、自分で書いたものに評価を下すとき、ネガティブに振り切れない部分があります。何がよくて何が悪いかという基準がわからないからです。そこで、教師や級友がその詩の良いところを指摘できれば、「自分で書いたものに愛着」が出てきます。それは同時に、自分の書いた言葉を吟味したり、振り返ったりすることになります。ただ、詩が非常に個人の領域に依拠しているものである以上、どのアプローチが愛着を呼び起こすトリガーになるかは個人差が激しいため、なるべく多くのアプローチをブレンドしていくことが必要だと感じています。
以上、大変勉強になりました。ありがとうございました。なお、最後に書かれている「良し悪しがわからない」ことを詩の良さと積極的に捉えるのは、僕の次のエントリの考えと同じだなーと思いました。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!