書かれたものを通して、書き手のストーリーを読むこと

子供たちの学校の授業参観に行った。妻には「職業病」と呆れられるのだけど、やっぱり他の人の授業を見るのは楽しい。たとえば娘のクラスの先生が「会社活動」をやったり、算数を『学び合い』でやったりしているのを見ると、それだけで色々子供たちのために試行錯誤してくださっているのだなと感謝する気持ちにもなる。

昨日の授業参観。娘の教室の後ろには、書初めの「新春」という毛筆が壁いっぱいに貼られていた。このクラスでは、別格に字が上手な子がいて、娘の字を客観的に見ると「上手なグループ」とは言えそうにない。でも、親としてはやっぱり彼女の字に目が行ってしまうし、実際に見ていても一番面白い。家で練習していた様子を知っているから、「新」のバランスはずいぶん上達したな、終筆のところがちょっと惜しいけど」とか、「春」はバランスにずいぶん気を付けていたけれど、家で書いていたほうがのびやかだったかな、とか、色々な感想が浮かんでくる。

そんな風に娘の毛筆を見ていたら、ふと、先日のエントリで書いた石川晋さんの言葉がよみがえってきた。

「表現を評価されること」に対する生徒の不安な気持ち。

2017.01.19

僕は生徒の書くものならなんでも面白がれる自信がある

彼の言っていたのは、こういうことなのだろう。単に書かれた結果を見て面白いかどうかを判定するのではなく、書かれた結果を通して、書き手が書いたプロセスを見る。書き手のストーリーを読む。関心のありかは、書き手にある。だからこそ、書かれた結果に対しても、単なる良し悪しの判定を超えた感想を抱くことができる。

率直に言うと、作文教育のプロセス・アプローチに興味がありますとは言いながら、ライティング・ワークショップを始めた頃はこんな感覚は全然なかったし、今でもその境地には到底たどり着けていない自覚がある。根本的に人に興味がないのかな、教師に向いていないな、と思うこともしばしばだ。

でも、今日の授業参観で、理想のイメージがちょっと具体化されたかな。娘が書道の練習をするのを見るように、生徒が書いているところを見る。もちろん人数的にそれは無理な話なのだけど、核になるイメージがつかめて、なんだかちょっとうれしかった。このことを妻に言ったらまた「職業病」と言われそうだから、ちょっと内緒にしておこう。

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