「共有しない権利」と「下書きの読み合い」のジレンマ

中学2年生のライティング・ワークショップ。今学期はショートストーリーの創作をやっている。今日のトピックは、そこでいまモヤモヤしている「共有しない権利」と「下書きの読み合いの場」の関係について。以前は良い仕組みだと思っていた「下書きを一斉に読み合う時間」の問題点を感じつつあるというお話。

目次

僕の授業での定番「編集会議」

僕は自分のライティング・ワークショップでは、途中で「下書き提出締め切り」を設けて、そこで一斉に「編集会議」と銘打った下書き原稿の読み合いをしている。作者と読者(「編集者」と読んでいる)に分かれて、作者の下書きをより良くするために助言したり質問をしたりする共同推敲活動だ。

以前は、「作者」「編集者」の他に「記録者」という役割も作っていて、編集会議は意見を言うのではなく質問中心にしたり、編集会議の後にそのリフレクションのパートを設けたりするなど、かなりシステマティックにやっていた時期もあった。当時は「書くこと」と同時に「話すこと」「聞くこと」の練習にもなると思っていたのだ。2009年にはこの「編集会議」を研究授業で公開して、参加者の方からはそれなりに興味を持っていただけたかなとも思う。

しかし、今思うと、あのシステマティックな編集会議は、教師側の必要性であって、生徒の必要に基づいてはいなかったと思う。今の編集会議は当時よりずっとシンプルになって、そういうシステムや「意見ではなく質問で」という縛りは設けていない。単に「作者の意図や理想を踏まえて助言しよう」というメッセージを伝えているだけだ。前のやり方の方が「公開授業向け」ではあるけど、今はこの方が、生徒の必然性に基づいていて、シンプルで良いと思っている。

「作者の権利10か条」の第1条「共有しない権利」

今の僕が気になっているのは、この「編集会議」と、「共有しない権利」の関係だ。「共有しない権利」とは、イギリスのナショナル・ライティング・プロジェクトが提言した「作者の権利10か条」の第一条にあるThe right NOT to shareのことである。僕はエクセター大学の留学時代にこの10か条に出会った(下記エントリ参照)。

これは素敵&大事!「作者の権利」10か条

2016.05.29

上のエントリで書いた通り、僕は、作文教育研究の成果を踏まえても、この10か条は尊重する価値があると思っている。「ちゃんと書く」というイメージからかけ離れた10か条なので逆説的に聞こえるかもしれないけれど、この10か条が尊重される場では、書く力が育つと思っている。

「共有しない権利」と「強制的な読み合いの場」のジレンマ

ただ、そうなると気になるのは、「共有しない権利」と、全員でグループで読みあう「編集会議」のジレンマだ。この編集会議はこちらで3人組や4人組と決めてしまうので、生徒からすると、メンバーに共有したくない相手がいる場合でも、心ならずも共有を強いられていることになる。

このジレンマについて、今のところは「学校教育は結局は強制の場だから」「気の進まない人とでも助言し合う経験は必要だから」と自分を納得させている。生徒には「本来は共有しない権利が尊重されるべきなんだけど…」と「作者の権利10か条」を示した上で、それでも今週の授業では強制的に共有させてもらうことを話した。

また、(ここ最近の僕のライティング・ワークショップでは定番だけど)僕自身の書いたショートストーリーの下書きを実際に見せて、みんなに読んでもらうことの緊張や不安を正直に話したり、改善するための指摘をその場でみんなから募る、というミニ・レッスンもした。「編集会議」に向かう生徒の心理的抵抗を少しでも減らしたかったからだ。

いずれなくしたい「編集会議」

そんなわけで今年の僕はまだ「編集会議」をやっているのだけど、この「編集会議=強制的な読み合いの場」の必要性について、今の僕はちょっと懐疑的になりつつある。もしこのライティング・ワークショップを継続してやっていけば、いずれ編集会議なんてなくなっていいと思う。なくすべきだとさえ思う。

書き手の「共有しない権利」は、安心して書くことに向き合うという観点で、もっと大きく捉えれば書く力の育成という観点で、とても大事なものだ。共有は、生徒が必要だと思った時に必要な人とやればいいんじゃないかなという気がしている。最初はきっかけ作りとして編集会議があってもいいけど、毎回強いられる類のものでは、決してない。

8年前に始めた「工夫」を、やめたくなっている現在

ここまで書いて気づいたけど、全員一斉の「編集会議」は、アトウェルのライティング・ワークショップにもないし、僕が最初に日本語で読んだフレッチャー&ポータルピ『ライティング・ワークショップ』にも載っていなかった。

ただ、ライティング・ワークショップに出会ったばかりの8年前の僕には「完全に自由にするより、こういう機会があったほうが良い」と思えて、それで「下書き締め切り提出」「全員での読み合いの場」を設けたのだ。当時の僕は、「下書き締め切りを設けないとみんな締め切り直前のやっつけ仕事になるんじゃないか」という疑念もあったし(これは今もあるw)、「書き手が安心できる場」や「共有しない権利」のことなんて頭の片隅にもなかったので、これがとても良いアイデアだと思っていた。生徒の安心よりも自分の安心を優先していたのかな。

けれど、8年経ってみて、編集会議は結局「余計なコントロール」なのかなと思いつつある。根本のところを押さえておけば、「全員一斉で推敲する機会」なんて必要ないのかもしれない。今の自分にはまだ編集会議が必要だけど、いつか、こんな強制された読み合いの場がないライティング・ワークショップができるのかな。その方が、生徒が安心して自分のペースで書けて、自分が相談したい相手と相談できて良い。

かくして僕は今、8年前に自分が始めた「工夫」の「やめどき」を考えはじめている。でも、この8年間は無駄な遠回りだったのではなかったと思いたい。「これはいい仕組み!」とそれなりに自信を持って公開授業にした当時のシステマティックな編集会議が、今の自分にはあまり魅力的ではない。それどころか、編集会議自体が、あまり魅力的ではない。こういう自分の変化は、良いか悪いかはともかくとして、率直に言って面白いな。

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