テクノロジーと作文教育の未来

「智場」(ちじょう)という雑誌の120号「子どもの未来と情報社会の教育」に作文教育とICTについての文章を寄稿しました。豊福晋平さん編集で、 苫野一徳さん、平川理恵さんなどが著者に名前を連ねています。アマゾンからオンデマンドで購入できるそうです。僕も今読んでいるのですが、教育の未来を考えさせられる論考が多くて、とても面白いです!(本当なのに、この宣伝臭…)

智場#120特集号 子どもの未来と情報社会の教育
豊福 晋平
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター
2016-01-31


 

自分が書いた部分は許可を取ってこちらで公開します。文中の脚注は省略しました。内容的には、今までブログで書いたことをまとめた感がありますが、よろしければお読みください。

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作文教育とテクノロジー?

 作文教育といえば読書感想文や運動会などの行事作文や生活作文、そうでなければ大学入試の小論文、という経験をお持ちの読者にとっては、「作文教育とテクノロジー」という組み合わせは奇妙に思えるかもしれない。しかし、文章を書く営みは常に何らかのテクノロジーを用いるので、作文教育とテクノロジーは、切っても切れない関係にある。
 
 たとえば、「生活を見つめることで思考力を伸ばす」ことを意図した大正期の生活綴方運動を推進させた条件の一つには、筆と和紙または石板に石筆で書くことから、ノートに鉛筆で書くようになった筆記具の変化があった。安価な鉛筆と消しゴム、洋ザラ紙の普及により、事前に書く内容をメモすることや、書きながら考えることや、下書きを推敲して清書するということが可能になり、筆やペンの時代には主流だった「書き出しで大意を述べる」というスタイルにも縛られなくなっていったという指摘もある。つまり、現在の作文教育におけるスタンダード「紙と鉛筆」は、それが登場した時代において、確かに書く営みやその教育を変えた新しいテクノロジーだったのである。
 
 同様のことが、PCというテクノロジーについても言える。アメリカでは1980年代にプロセス・アプローチという作文教育の手法が教育現場に広まった。これは、書き終えた作文を添削する従来のアプローチに代わって、文章の着想から完成までの一連のプロセスを個別に教えよう、というスタンスの作文教育法だ。そして、この動きを支えていたのが同時期にアメリカの学校に普及していったパソコンやそのソフトであった。途中段階での保存と推敲が容易なPCでの執筆が、プロセスの指導を可能にしたのである。

日本の作文教育におけるPCの活用


 

 このように、テクノロジーは作文教育に影響を与えてきた歴史がある。では、今の日本の作文教育の現況は、PCという新しいテクノロジーを充分に活かしていると言えるだろうか?
 
 まず断っておくならば、日本には作文教育の長い歴史があり、いま振り返っても示唆に富む優れた先人の実践が多く蓄積されている。また、自分の体験をもとに国語教育を批判したがる人たちの思い込みに反して、国語教科書も時代とともに変化しており、認知科学の成果を取り入れて文章を書くプロセスに注目した指導も、徐々に教科書に登場している。言うまでもなく、各地には作文教育に熱心に取り組む教師もいる。
 
 にもかかわらず、日本の作文教育を全体として見ると、筆者もやはり停滞の印象を否定できない。第一に、いまだに多くの作文教育の現場では原稿用紙に手書きで書くことが中心であるため、文章を推敲して書き直すことが難しい。第二に、「教師が添削して指導する」作文教育観が根強く存在するため、最終的な読者として教師しか想定されていないことも多い。それが書く側の動機を弱めてもいるし、同時に添削の負担の重さが作文教育から教師を遠ざけてもいる。この結果、豊かな実践の蓄積や教科書の改善があるにもかかわらず、特に中学校以降において、充分な作文教育がなされていない。それが作文教育の現状であろう。
 
 実のところ、こうした問題の中には、PCを活用すれば解消・軽減できるものも多い。たとえば、コピー&ペーストが容易なPCを使えば、推敲は格段にやりやすくなる。また、クラウドを活用して執筆途中の作文を共有すれば、生徒はお互いの下書きを参考にしながら書き進めることもできるし、コメント機能を使って助言を送りあうこともできる。もちろん下書きだけでなく、完成した作品を共有したり、電子出版やブログなどを通じて広く外部に公開したりできるだろう。こうした取り組みは、教師の指導の負担を減らすだけでなく、教室という閉鎖空間を超えて読者を獲得する可能性につながる。
 
 筆者自身もまた、このようなメリットを意識して作文の授業を組み立てている。たとえば、2014年度には、担当した高校3年生、中学1年生でそれぞれ作文の授業を行ったが、どちらもPCを用いて執筆し、下書きや完成時の原稿もサーバー上にPDFファイルで提出するものであった。こうすることで、お互いの下書きの状況を横目で参考にしながら執筆でき、また推敲も容易になる。これに加えて、高校3年生の授業では指定テーマに関するオープンアクセスのPDF論文やブックリストをクラウド上で共有し、どの端末からでも資料が閲覧できるようにした(筆者の勤務校は、スマホやタブレットの持ち込みが自由であり、学校所有のタブレットも40台ほどある)。また、中1の授業では「自分の探究したいテーマについて問いを作り、それについて調べて伝える」という自由度の高い課題だったこともあり、下書きや完成原稿だけでなく、テーマや問いも含めて常時共有できるようにし、相互の交流を促すことで執筆を助けた。
 
 また、少人数授業の例になるが、2013年度には、25名の中学3年生を対象に、社会科の同僚と組んで「地域研究のガイドブックをつくろう」という選択授業を開講した。これは、勤務校の中2~中3で行われる総合学習「地域研究」についてのガイドブックを、「地域研究」を経験済みの中学3年生が後輩向けに書いて役立ててもらう取り組みであった。複数の生徒が取材しつつ執筆するので、当然、原稿はクラウド上で共有し、相互に読み合って進める。特に編集を担当する生徒同士は、SkypeやGoogle Docsを用いながら全体の構成や原稿案を何度も練りなおして、一冊の本を仕上げていった。この時は、最終的にInDesignを用いて原稿化・製本するところまで、ICTなくして授業は不可能だった。このように、一人一台のPCが用意されるだけで、本格的な作文教育ができるようになるのだ。
 
 ところが、いまの学校現場でのPC普及率は極めて低く、都道府県別のPC一台当たりの生徒数は、トップの佐賀でさえ4.3人に一台であり、一人一台には程遠い。これではPCを活用した作文教育など望むべくもなく、歯がゆい限りの現状だと言わなくてはいけない。

テクノロジーがもたらす作文教育の未来

 しかも、このような日本の教育現場の現状を置き去りにして、ここ10年程度、ICTは書くことに新たな変化をもたらしつつある。それはどのような変化なのか。デジタル時代の作文教育について考察した本Developing Writersの議論をもとに、いくつか指摘してみよう。

(1)書くことの日常化
2000年代から個人のブログや各種SNSが普及し、人々は、PCを使って気軽に文章を書くことができるようになった。2010年代前後になるとスマートフォンなどのモバイル端末も普及し、それこそ「いつでもどこでも、暇さえあれば」書くことができるようになった。

(2)書くことの共同プロジェクト化
ブログやSNSの普及は、書き手が容易に読者と出会えることに加え、読み手とともに書くこと、お互いが書き手であり読み手であることをも可能にした。そこでは、人々は全体としての場の共同性を意識しつつ、それぞれが書き手/読み手として参加し、リツイートやシェア、コメントなどの機能によって、相互のフィードバックや触発を生んでいった。いわば、書くことは個人の営みでは完結しない、共同プロジェクトになってきた。

(3)書くことの習慣の変化
上記の(1)(2)の変化は、書くことの習慣にも変化をもたらす。具体的には、文章はより短くなり、会話的になった。読むのに時間のかかる長文は減り、ニュアンスの伝達のために顔文字や絵文字も文章の一部として使われるようになった。段落替えも、「段落替え」よりも読みやすい「行空き」がその機能を担うことが普通になった。

(4)話し言葉と書き言葉の接近
(1)~(3)はすでに現れている現象だが、これに現在加わりつつあるのが音声認識の精度向上による変化だ。話し言葉と書き言葉の間には大きな差異があるが、今後書く方法として「話す」ことがもっと一般的になれば、両者の差はもっと埋まってくると思われる。

(5)表現手段の多様化
加えて近年、文章を写真・動画・音声データと一緒に用いる傾向が顕著になっている。近年の子どもはデジタルソフトへの親和性が非常に高く、中学一年生であっても文化祭のチラシをデジタルデータで作成してくるし、三年生くらいになると本格的なDTPソフトを使う生徒も出てくる。こうした中で、生徒は、文章の内容や分量だけでなく、フォントの種類や大きさなどのデザイン的要素も含めて、「文字を書く」という営みを改めて捉え直しているのである。

以上のような方向性の中で、今後、作文教育は次のような変化をたどると思われる。
 
 第一に、「書くことの共同プロジェクト化」が、教室でも一層促進されるだろう。これまでは書き上げた結果を教師一人に読んで添削してもらっただけであったものが、書くプロセス自体が公開され、共有され、フィードバックを受けて、つまりは共同で一つの文章を作者/読者として作り上げていく経験が、日常的に発生するだろう。それは、書かれた下書きをお互いで読み合うというだけではない。いまやPC上で生徒の書くプロセスをキー入力ごとに記録することも技術的には可能であり、たとえばキーボード入力が止まった時間をとらえて、「ここで少し入力が止まったみたいだけど、何を考えていたの?」と、書くプロセスに直接フィードバックすることも可能になる。書き上げた文章も、教師に点数をつけてもらうためではなく、教室の外の読者に読んでもらうために公開される。
 
 第二に、「話すこと」が作文教育の手法として一層重視されるだろう。プロセス・アプローチの立場からは、話すことは書くプロセスを支える重要な要素とみなされており、これまでも、教師と生徒が、あるいは生徒同士が作文について話しあう活動などが授業の中に取り入れられてきた。この傾向は、音声認識の精度向上に伴って、さらに加速されるはずだ。たとえば、アイデアを一人で、あるいは複数で話しあい、自動的にテキストに起こされたその断片を組み合わせて文章にするという書き方が、今後一般化することも考えられる。
 
 第三に、作文をデザインという観点から捉え直すことが、国語の授業の内容として定着していくだろう。表現手段として画像・動画・音声などを選択することが容易になると、書くことはそれらの隣接領域と関わった営みと認識される。その結果、多様な表現手段の中でなぜわざわざ「文章を書く」という手段を選んだのか、それは他のどのような手段と関わって機能するのか、そしてそれは目的に対する有効な手段となっているのかなどが、教室でも考察されることになる。「表現する」といえば「書く」だった国語の授業が、もっと豊かな広がりを持つようになる。同時にそれは、書くという営みの本質を考えなおす作業にもつながる。同様に、フォントの種類や大きさといった文字のデザイン的要素も一層重視され、作文教育の一環として扱われるようになるだろう。
 
 PCが普及しない日本の教育現場の現状からは、このような未来はちょっと想像しにくいかもしれない。しかし、この変化は、少なくとも一人一台のPC配備を可能にした学校では、それなりの高い確率で起きると思われる。同じ作文教育と言っても、四百字詰め原稿用紙に読書感想文を書いて先生に提出し、赤ペンが入って返却されることとは、全く異質の、共同的で創造的な体験である。私達が構想すべきなのは、このような書くことの未来を見据えた教育のあり方なのだ。私も作文教育に関心のある国語教師の一人として、それに向けての準備をしていきたいと思っている。

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