書き手の意図と授業者の意図が衝突するとき。「評価カンファランス」での発見から①

先々週から今週にかけて、年度末評価の時期でした。僕の受け持つ国語の授業では、僕は1年間取り続けたカンファランスの記録を読み直しながら、一人ひとりの成長やこれからの期待についてコメントを書き、並行して子どもにもこの1年間の作品や記録を読み直してもらって自己評価をしてもらう。それから2つの評価をあわせての「評価カンファランス」をした。コロナを受けての授業減(たったの週2コマ!)で、子どもたちに過去の記録をじっくり見てもらうことができず、当初の想定どおりにいかなかったのがとても残念だが、基本的には下記エントリと同じ流れである。

自分なりの理想の評価プロセスと、その課題。

2020.10.23

この「評価カンファランス」で全員と10分ずつおしゃべりするなかで、「なるほどなあ」と思ったこと、面白かったこと、改めて知ったこと、いくつか忘れたくないことがあった。長くなったので2回にわけることにして、今日は、「書き手の意図と授業者の意図の衝突」をテーマにふりかってみたい。

写真は北八ヶ岳の入門的な山として知られる北横岳。厳寒期2月の雪と、八ヶ岳ブルーと言われる青い空のコントラストが最高でした!

締め切り直前までうろついているAさん

もっとも印象的だったのは、当たり前だけど、文章を書くプロセスは人それぞれだ、ということ。何人か、印象に残った人との会話を書いてみる。

Aさんは、授業中にいつもあたりをうろつき歩いてばかり。直前まで遊んでいて、何もやる気配がない。しかし、いつも締め切りギリギリになって書き始め、Aさんなりに工夫した作品を書いてくる。「ちゃんと座って」と言っても聞く子ではないので、「気が向くまでしょうがないな」とこちらも放置してるんだけど、Aさんとの評価カンファランスで、「不思議な書き手だね」と言ったところ、実は、あのうろうろ期間に他の子の作家ノートやパソコンの画面を「カンニング」(←Aさんの表現)して、アイディアを考えていたそうだ。なるほど、あれはサボっていたのではなく、Aさんのライティング・プロセスだったんだな。もし僕が無理に座らせて書かせようとしていたら、Aさんは書かなかったかもしれない。

こういう事例は、基本的に子どもの自由にするほうが良さそうにも見えるが、でも大人から見て一見サボっているようで本当にサボっているケースも多々ありそうなのが難しい。実際、いつも関係ないおしゃべりで時間を過ごすグループもいた。「彼らもAさんと同様、おしゃべりすることで徐々に書くことへの心の準備をしているのだ」と好意的に見ることも、もちろんできる。でも、実際に彼らを相手にしていると、従来型教室のように座席を決めて、集中しやすい環境を作ったほうが本人たちのためなのでは…と思うことも少なくなかった。

長編を書きたい、プロセスは見せたくないBさん

僕の授業では、だいたい1ヶ月〜1ヶ月半の期間を作家の時間の1サイクルにして、その都度出版をしている。この期間で子どもたちが書いてくる分量は決してそう多くない。なかには1万字以上書いてくる子もいるが、A4の用紙2枚くらいが標準的だ。つまれり、僕は、明示的な分量制限はしないけれど、期間を限定することで分量の制約を事実上行っているのだ。この分量については、ナンシー・アトウェルの学校の影響を受けている。あまり長いと生徒も推敲を嫌がるし、こちらも全員をフォローしてコメントしきれなくなるからで、合理的な制限だと思っている。

アトウェルの学校の見学メモ(4日目)

2016.04.15

ところが、この僕の方針とBさんがあわなかった。Bさんはたいへんな読書家で、長編小説を書きたいのだ。だったら毎回「続く」にして少しずつ作品を書いてくれれば良いのだが、しかしこだわり派のBさんは、完成するまで一切人に見せたくない派なのであった。「完成するまで見せたくない」職人気質の子はこれまでにもいたが、それが長編志望とかぶってしまうと困ってしまう。プロセス・アプローチの「作家の時間」なのに、いっさいプロセスの見取りができなくなってしまうからだ。もしも作品完成まで半年かかると、こちらは半年間遠くから見守るだけで、診断的評価(その子の現状の把握)も形成的評価(その子の現状をふまえたフィードバック)もできなくなってしまう。だから、結論として今年は、僕の方針にBさんが合わせることになった。Bさんは毎回作品を出してくれたが、でもBさんにとってフラストレーションがたまる1年だったのだろう。評価カンファランスの最後には、「もし来年も授業を受け持つことになったら、どうしたらいいかまた相談しよう」と言ったものの、もう少し早く解決策を見いだせなかったのは反省だなあ…。

実は共同作品なら書けた?Cさん

CさんはBさん同様の読書好き。しかし、書くことはそうではなかった。Cさんは、自分の書くものが「生まれたときから」(本人談)嫌いな子。書いているそばから「ああも書ける、こうも書ける」と浮かんでしまって、先に進めなくなるのだ。こういう子は、毎年必ずいる。どの書き手も、他者に読まれる不安、自分の文章には価値がないのではという不安を抱えているものだが、Cさんはその不安が強いのだろう。自己検閲で文章が書けなくなってしまう。これまでにも出会ったタイプなので、どうにか心のこわばりをほどいであげたくて、色々な提案はしたのだけど、結局うまくできなかったな、という後悔が残っていた。そういう気持ちを最後の評価カンファランスで伝えておしゃべりしていたところ、「共同作品なら書けたかも」という言葉が出てきて、「ああ」と心当たりがあったのだ。

実は僕の受け持った5・6年、去年までは複数の書き手で一つの作品を書く共同作品が多かったのだ。今年の4月、あまりに共同作品を書く子が多くて驚いた僕は、6月に始まる次の作家サイクルから、「授業中の作品は、基本的には一人で書こう」と語って、共同作品を禁じたのである。

これにはいくつかの理由がある。第一に、スティーヴン・キングの「ドアを閉じて書け」ではないが、僕は「書く」ことは基本的に「一人の営み」だと思っていること。書いて考えを進める、書くことで自分を知るDiscovery Writingには、一人であること、孤独であることが欠かせない。そうやって苦しい中で自分の言葉を探し当てる営みが、書くことの大事な要素だと思っているのだ。第二に、もう少し実際的な理由として、共同作品を書いている時には、どこからどこまではその子の力量なのかがわからず、診断的評価も形成的評価も一切できないからである。僕は単に楽しく書けばいいとは思っていないので、その子への評価を通じて、その子の現状にふさわしい次のハードルを考えながらカンファランスをしている。その僕のスタイルと「共同作品」は相性が悪いのだ。第三に、共同作品といっても、子供の様子を見ると、あまり良い共同の仕方ではないものもたくさんあったこと。「3人の共同作品」と言いつつ、書いているのは1人だけ。聞いてみると他の二人は「俺たちはアイディアを出してあいつが書く」とほぼフリーライダー状態のグループもあった。これだと、本人は楽?楽しい?かもしれないが、力はあまりつかない。

というわけで、僕は基本的に共同作品には否定的だった。一緒に書く楽しみがあることは否定しない。僕の受け持ちクラスの子でも授業外で共同作品を書くことを楽しんでいる子はいて、それはおおいにやってほしいけど、以上の理由から、授業では基本的に一人で作品を書いてほしいと言った。これは僕が「作家の時間」を単に「自由に楽しく書く時間」ではなくて、「書くことを通じて、書く営みや自分自身を探究する時間」「書く力をつける時間」と位置づけているからだろう。

結局のところCさんは、そういう僕の方針の犠牲になったのだろう。自分の書くものに嫌悪感を持つCさんは、もしかして他の子との共同作品なら書けたのかもしれない。「足場がけとしての共同作品」。もしかして最初はほとんどペアを組む子任せになってしまうかもしれないが、そこを足がかりに、書き手としての自分を少しずつ作っていけたのかも知れないのだ。もちろんどこかで「一人で書く」ことに挑戦することをうながす必要はあるだろうが、それはCさんにとっては今年ではなかったのかもしれないのだ。

書き手の意図と授業者の意図が衝突する時

今回あげた事例、特にBさんとCさんのように、書き手の意図と授業者の意図が衝突する時にどうすればいいのか。これ、難しい問題だと思う。もしも、長編小説を書くこととカンファランスを拒否することを同時に認めたら….。もしも、共同作品を書くことをみんなに認めたら…。その時はその時で、また別の課題が生じる。だから一概にどっちがいいとは言えないのだけど、少なくともCさんの場合、これまでもたくさん関わってきて一年の最後のカンファランスでようやくこの発言を引き出しているのは、あまりにも遅すぎた。そういう反省をしっかりしつつ、もしも来年また関わる機会があれば(現時点では全くわからない)、Cさんと相談して、どうしたらCさんにとってベストの機会を提供できるか考えていきたい。

この「評価カンファランス」、本エントリでは自分の反省点中心に書いているけど、いろんな子の書き手のプロセスが見えたり、成長のあとが見えたりして、本当に勉強になる時間だ。お互いに評価を書いた上での一人10分の全員との面談には、大きな価値がある。この面談で得たものを、ちゃんと忘れないようにしたいな。というわけで、次回も「評価カンファランス」での発見を、もう少しだけ続けます。

つづきはこちら

「作家の時間」「読書家の時間」で大事なのは、作家ノート、仲間、そして授業コマ数....。評価カンファランスでの発見から②

2022.03.06

 

 

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4 件のコメント

  • 初めてコメントします。Readers’とWriters’のワークショップ的な授業を小学校英語で今年度から試験的にやっています。

    日本の学校の国語で行うWorkshopについてのこのaskomaさんのこのブログ、先程発見しましたが、様々な記事を読ませていただきました。とても参考になります。

    作家の意図と授業者の意図、そのバランスの難しさと評価における衝突を、私も今週学期末が到来して生徒に作品の「仕上げと振り返り」を期待する中で何度も感じました。

    でも、そのような難しさがあっても、私が以前やっていたような「全員同じ課題・トピックと同じテンプレートを使ったライティング+プレゼン」の外国語学習を目標としたプロジェクトよりも遥かに深い学びが今学期行われたので、やり方はまだまだ研究が必要ですが、ワークショップの方式で各生徒に題材や表現方法を選んでもらえる自由を与えて正解だったと痛感しています。

    すばらしい記事をありがとうございます。またFBなどでフォローします。

    • 慶応幼稚舎の先生で、吉田新一郎さんと『国語の未来は本づくり』を翻訳されたマーク・クリスチャンソン先生ですね! コメント光栄です。私ももう10年以上前に吉田さん経由でライティング・ワークショップ、リーディング・ワークショップについて知り、以降、この実践を中断しつつも続けています。魅力のある取り組みですよね。ぜひ今後ともよろしくお願いします。

      • 幼稚舎は老舗のsibling schoolで、私は新設の横浜初等部でEnglish for Global Communicationの担当をして10年目に入ります。

        そうなんです!『国語の未来は本づくり』、原書がとてもいい内容だったので吉田さんにアドバイスもらいながら和訳し出版が実現しました。Book making / writers’ workshopを通して行われるアメリカの低学年の児童主体の読み書き学習のプロセスをよく説明していると思います。

        風越の生徒たちの学びにもとても興味あります。コロナでなかなか学校訪問や研究授業もなくなりましたが、一度行きたいと願っています。(ちなみに軽井沢育ちです^^)

        今後とも宜しくお願いします。

        • ご所属の件、認識不足で失礼しました。軽井沢育ちなんですね。はい、コロナが落ち着いたら…になってしまいますが、ぜひおいでください。私ももともと中高生相手だったので小学生相手には慣れない事が多く、色々と教えていただきたいです。