二学期は高校生の授業でパラグラフ・ライティング。レポートの採点にからんでの一コマから。「自由に書ける」とは、書く場面や目的に応じて、自分の判断で内容や書き方を選んで書けるということ、というお話。
自由に書かせて!という生徒の声
パラグラフ・ライティングのレポートを読んでいくと、ある生徒(落語好きな生徒なので落語君と呼ぶ)が本文の後ろに、「パラグラフ・ライティングが苦手すぎて文章を書くのが辛かった」「次の作文はもっと自由に書かせてほしい」という趣旨のことを書いていた。
なるほど、レポートにも苦戦の跡が見え、コメントからはそもそもパラグラフ・ライティングの書き方を学ぶ意義もあまり感じていない様子。パラグラフ・ライティングは「1パラグラフで1つのトピックを扱う」「そのパラグラフの主題は先頭に置く」などと書き方を指定されるので、そのことが彼にはストレスになったようだ。
こんなに違う、落語とパラグラフ・ライティング
昨日、その落語君と学校で会った時に「レポートの末尾に、自由に書けなくて嫌だったって書いてたよね」と話題をふってみた。
「君さ、たしか落語好きだったよね」
「そうですね」
「落語が好きな人が、パラグラフ・ライティングが嫌っていうのは、僕もわかる気がするんだ」
(と言って、適当に4象限の図を描いてみる)
「これね、横軸が語り方のタイプで、縦軸がオーディエンス…読み手とか聴き手だとすると、」
(右上をマルで囲む)
「落語って、ここだよね。目の前の、その場にいる聴き手に向かって、物語を語るでしょ。聴衆の反応とかも見ながらさ」
「そうですね」
「パラグラフ・ライティングってどこ?」
「ああ、ここですかね」
(左下を指差す)
「うん、パラグラフ・ライティングを使うのは論文やレポート、実用文。その場にいない不特定多数の読者に、説明したり議論したりする文章だよね。だから、落語とパラグラフ・ライティングは全然違うんだよね。目的や語りのモードや、伝える相手が違う」
「なるほど」
「自由に書ける」ってどういうこと?
さて、「自由に書ける」ってどういうことだろうか? 嫌いなパラグラフ・ライティングはやらないで、別の、好きな書き方を選べるということだろうか。そうではない。「自由に書ける」というのは、目的や相手に応じて、自分で考える最適の書き方を選択できるということだ。色々な書き方ができて初めて「自由に書ける」ようになる。技術が人を自由にする。
そういう僕の考えを伝えてみた。
「なるほど、今のままだと自由なようで、できることに縛られているわけですね」
「そうそう、できることが増えて初めて自由になる」
「落語のような伝え方を選ぶにしても、こっちにパラグラフ・ライティングみたいな伝え方があるとわかってるだけでも違いますね」
「うん、そう思う。それに、大学のようなアカデミックな場では知っておくと便利な書き方であることは間違いないしね」
というわけで、落語好きの彼も、ある程度はパラグラフ・ライティングを学ぶ意義を理解してくれたようだ。納得して帰ってくれた。こういう話を最初にきちんとできていなかったってことだなと思いながらも、ほっと一息。
「自由に書ける」は「好きに書ける」こととは違う。自分の引き出しを増やして、そこから自覚的に選択できることが、「自由に書ける」ということだ。だから、物語的な語り方だけでもだめだし、パラグラフ・ライティングだけでもだめ。色々なジャンルの書く経験をして、色々な書き方を試して、表現手段のレパートリーを増やしていき、表現の「自由」を獲得する。それを助けるのが僕たちの仕事なんだなあということを、落語君とのやりとりを通じて、改めて思った。
確かにどういうジャンルの文章を書くのかによって、スタイルが違うということを意識しないと誤解を招きますね。日本語・英語で違うということを強調しずぎるものが多く、私自身も誤解していたことがあります。「小説で結論みたいなのを最初に書く人いないよね」と言われてわかりました。
でも、そういうことも、ではなぜこのジャンルのものはそういう書き方が有効なのか?とか、そもそもこうしたジャンルのものがどのように棲み分けながら発展してきたのか?。。。などと考えながら、その歴史などを追いかけるととてもいい言語・文学・歴史の融合した授業になると思います。ぜひ、果敢に挑戦してみてくださいね。
ジャンルの歴史まで行くと壮大ですね…。授業はあくまで10分ほどの間で講義してるので、入れ込めるかが鍵かな。でも面白そうです。
様々な文体があり、知ることは、小学校低学年から理解できると思います。学校で教える側が、意識しているかが大切かと。
あと、繰り返しでしょうね。一度やったくらいでは全く覚えないので、繰り返しが本当に大事だと感じます。