[読書] 自分の学校を、ちょっと違う目で。妹尾昌俊『変わる学校、変わらない学校』

妹尾昌俊さん『変わる学校、変わらない学校』を読んだ。読んだだけでなく研修会にも参加してきた。そこで学んだことと、気になったことを書く。

組織マネジメントのコツ3点

妹尾さんは元々野村総研で、文科省や自治体から学校評価や組織マネジメントの仕事を請け負ってこられた。この本ではそうした経験を元に、学校経営の要諦を「到達目標の共有」「プロセスの設計」「チーム・ネットワークづくり」の3点からまとめている。

僕たち現場の一教員が「組織」としての学校を考える機会や視点は限られているので、この本を読んでいると「なるほど」と思わされることが多い。特に「あるある事例」が満載で、苦笑したり、足の裏がむず痒くなってきたりする。実例も多く紹介されていて、何度か読み直す機会がありそうな本である。

怖いのは「角を矯めて牛を殺す」

こうした本の内容を実際に実行に移す上で怖いのは、「自分の職場の短所を消そうとしたら長所も無くなりました」という「角を矯めて牛を殺す」状態になってしまうこと。その見極めが難しくって、実際に妹尾さんのような外部の方に学校現場を見てもらいつつ、考えていく方が良いのかな、とも思う。研修会でも、民間の人ももちろん参加されていたんだけど、その人たちの話は面白かった。違和感もあるんだけど、その違和感が面白い。

自分の勤務校の場合は、基本的には「高い能力を持った教員を集めてその個人力に任せましょう」経営で、基本的には個人の自由度が高い(これは教員だけでなく生徒にも言える)。働く側としての満足度もまあまあ高い。ただ一方で、この本の中で指摘された「個業化」の問題など、個人の自由を尊重する故の課題も感じている。「教員の(個人としての)自由や居心地の良さ」と「チームとしての動きやコミュニケーション」のバランス。このバランスをうまく調整する方法ってどうすればいいんだろうか。「酒を飲め」みたいな、家庭との時間を犠牲にする方法じゃなくて…。

学校教育に「目指す子ども像」は必要か?

ところで、この本を読み、研修会に参加して、むしろ疑問が深まったことがある。それは、学校教育で「目標」を持つことの意味ってなんなのだろう?ということだ。この目標とは、「目指す子ども像」のことである。

僕が違和感を覚えるのは、「明るい子、優しい子、たくましい子」みたいな学級目標が否定的に語られる時だ。そういう曖昧な目標は良くない、もっと具体的な行動に落とせて評価できるような目標が良い。そんなふうに語られているけど、本当にそうなのかな? むしろ、曖昧でふわっとしてるから、どうにでも解釈できていいんじゃないの?という気持ちがある。

もちろん僕にも、生徒にこういう力をつけたい、というのはある。しかしそれは、生徒が成長した時に自分でそういう力を「武器」として使って欲しいので、こういう人間になってほしいというのとは違う。その武器を使うかどうかも本人が決めることである。そもそも、人間はなるようにしかならないし、人を思い通りに動かすことなどできない。だから「どんな人になるか」はその人が決めるべき、その人の人生。あえていえば、僕は生徒に「自己決定できる人」「自由な人」になって欲しいなとは思うけど、それすら僕の勝手な願いで、彼らからしたらいい迷惑だろうなと思う。

教育する側が持ってしまいかねない「こういう人になってくれるといいな」という思いと、そういう思いの持つ傲慢さの自覚。その両者が良い塩梅でブレンドしたのが、「明るい子、優しい子」みたいな「曖昧で何も言っていないような到達目標」なのではないか。まあ、「仕事だし目標は一応立てておくけど、いい加減にしておこうよ」という一つの知恵のかたち。商品の品質管理のように本気になって目指すようなものじゃないし、それができると思っている人って、大人や子どもに関係なく、人間に対してけっこう傲慢だなあと思うんだけど。

こういうことを思ってしまうあたり、自分はマネジメント的な発想が持てないのかもしれない。色々なヒントとともに、ちょっとそんなことも考えた一冊だった。ともあれ、学校現場の人にはおすすめです。自分の学校を、いつもとちょっと違う目で見られる一冊だと思います。

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