小池陽慈さんの『世界のいまを知り未来をつくる評論文読書案内』を読んだ。「世界のいまを知り未来をつくる」にこめられた願いの通り、国民国家体制を基盤としつつもそれが揺らいでいる現代世界の問題を理解するための評論文案内の本である。そして、一般向けの読書案内本でありながら、同時に、筆者個人にとってもこの問題を扱うことが大事だったのだろうと思わせる、「声」の感じられる入門書でもあった。著者とほぼ同世代でもあり、元・高校国語科で現代文を専門に担当していた僕にとっては、懐かしさも感じられる読書だった。
目次
評論文、この厄介なもの
長らく僕にとって、「評論文」とは、面白くてつかみどころのない厄介な存在だった。読むのは楽しいのだ。新しく知識が得られるし、評論を読むことを通じて新しい語彙やものの見方に出会い、これまでの自分の世界の見え方が更新される快感を何度も味わった。でも、読んでもどうにもよくわからない評論もあるし、まして自分で教えるとなると、その問題の専門家でもない自分が、さもわかったふうに解説してしまうことへの後ろめたさがついてまわる。政治や歴史から哲学や芸術論まで、雑多な文章を読み、それを語るための語彙や知識を仕入れてそれを生徒たちに解説していると、素人によるエセ入門講座っぽくなり、「あれ、自分は何屋なんだっけ….?」という思いに襲われる。面白いことに、高校で教えていた当時よりも、小学校で国語を教える現在のほうが、文章理解における専門的知識の影響が小さいだけに、よほど「国語教師してる」感じがするほどである。そんな評論文にあらためて向き合う今回の読書は、懐かしささえ感じさせる読書体験だった。
話題が「偏っている」わけ
本書は、評論の頻出テーマである国民国家、民主主義、コロニアリズムなどについて、関連図書を引用したり紹介したりしながら、易しく解説する入門書である。内容が内容なのでどうしてもある程度の抽象語は出てきてしまうが、歴史知識などはすべて本書の中で解説されているので特別な前提知識も必要ではない。そして、評論頻出の抽象語や物の見方について解説することを通じて、世界でおきている問題のより良い理解にいたろうと、読み手に呼びかける本である。呼びかけるといっても、筆者はしばしば自分が案内役を務めることを恥ずかしそうに語る。それはただの謙遜というより、おそらく僕が評論の授業をする時の自分に感じていた「素人によるエセ入門講座」っぽい後ろめたさを、おそらく筆者も共有しているからではないかと思う。そんな筆者の語り口に、共感しながら読みすすめた。
そして、評論文案内としての本書の特徴は、評論文の取り扱う広範なテーマの中でも、「表象」という概念を皮切りにして、近代の国民国家体制を核とした「中心-周縁」関連問題に話題を意識的に狭めて解説し、関連図書を紹介していることにある。この話題は、もちろん現代もアクチュアルな問題だが、必ずしも最新の問題意識ではない。どちらかというと、1990年代後半から2000年前後、筆者やほぼ同世代の僕が大学生や大学院生をしていた頃によく言及されていたことである。例えば、もし僕が、正確に言うと数年前の現代文教員だった頃の僕が「評論文読書案内」的な本を書いていたら、授業でよく扱っていたエンハンスメントなどの生命倫理の話題や環境倫理の話題は間違いなく入れただろうし、同様に、情報社会と「個人」概念の変質やAIについても触れただろう。日々評論文に接することを仕事とする筆者が、この種の話題を知らないことはありえない。ではなぜそれらの話題を意図的に入れないのか、読みながら少し不思議だった。
おそらく同業の方なら感じるだろうこの謎は、「おわりに」で明かされる。それが何かはここでは書かないけれど、筆者の問題意識はやはり1990年代後半の、自身のとある経験にあり、その当時の自分へのひとつの応答としてこの本が書かれたことを、読者は知ることになるのだ。ここは僕は一番胸を打たれた。誰のためでもなく自分のために書かねばならぬ衝動に突き動かされた結果として生まれたこういう本が、僕は好きである。
国語の先生になりたての人は必読!
本書の主要な読者は、実際には大学生以上になるだろう。僕の考える最適の読者は、国語教師、特に高校の国語教師になりたての若い先生たちだ。筆者が書いているように、評論文を読むには膨大な前提知識がいる。そして、本書はその前提知識の紹介本としてとてもよく出来ているし、推薦図書にも(もちろん僕も全部を読んでいるわけではないけど)僕が実際に読んで参考になった、定評ある本が多い。推薦図書を含めて本書を読むことは、高校現代文教師としての基礎体力づくりにもってこいである。もし僕がいまも高校の現場にいて、若い先生の指導をする立場になったら、この本をおすすめ本の1冊に入れる。
高校生はどうだろう?僕がかつて教えていた筑駒生(の一部)のような、評論文から大いに知的刺激を受ける子たちであれば、高校生でも充分に楽しく読める。そういう子たちにとっては、いま世界で置きている問題を捉え直す「メガネ」を本書を通じて手に入れることが、たまらなく楽しいはずだ。けれど、多くの高校生にとっては、残念ながら本書自体が難しい。それは仕方のないことだ。大学入試の評論文と、それを意識して編まれている高校の教科書の評論文の多くは、一般的な高校生の日常の読書とは離れているのが現状である。
この本を手にとれるまでの種まきをどうしたらいい?
僕自身は、大学受験生を相手にする筆者とは異なり、今は幼稚園から中学校までの学校で、小学校高学年を相手にしている。そして、中高生の日常の読書と評論文の乖離を、小学生時代からの読書経験の蓄積を通じて埋めようとするアプローチの人間だ。だから筆者とやや異なるのだが、「評論文を理解することは、現代の社会や世界に山積する問題を捉え直すこと」という考えには大いに賛同する。僕の立場から言うと、問題は、受験を迎える高校2年生や3年生が、本書のような優れた評論文読書案内を手にとれるようになるにはどうしたらいいのか、ということになる。中学生や高校1年生くらいまでに、どんな読書経験を積んでおくと、高校2〜3年生くらいで本書を背伸びしつつも面白く読めるのだろう。筆者の仕事が高校生や大学生にアプローチすることなら、僕の仕事は、読書教育の立場から、そこにいたる種まきをしていくことだ。評論文についての本を読むことで、高校生を教えていたかつての自分と、小学生を相手にするいまの自分の違いについて、あらためて考えるきっかけにもなった。