もう10月もはじまって一週間たってしまったけど、2024年9月の読書まとめエントリ。今月はちょうど10冊の読書冊数だけど、そのうち7冊が登山系という偏りぶり。自分の関心がいまは国語よりも登山に向かってる感じ。そんな自分の「いま」を露骨に反映した読書エントリ、いってみよう。
目次
若き登山家の遺稿集、『新編・風雪のビヴァーク』
今月のベストは間違いなく、松濤明『新編・風雪のビヴァーク』である。きっかけは、8月に行った大町山岳博物館で見つけた、手帳に残された遺書だった。1946年、著者の松濤明はこのとき26歳。冬の北鎌尾根を2人で登山中、落下した同行者を見捨てられず、自分もその地点まで降りてともに遭難死することを決意し、遺書を認めた若き登山家だ。「仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ」「ヒグレト共ニ凡テオハラン」「我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル 個人ハカリノ姿 グルグルマワル」といった壮絶な文言と、お米やお金の借りを返せないことへの現実的な気配りが共存する遺書で、大町山岳博物館の中でも、忘れがたい印象を残した。
そして、彼の遺書を含んだこの散文集を読んでみると、松濤明という人物が、10代半ばからさまざまな記録を打ち立てた卓越したアルピニストだったことに恐れ入る。16歳から26歳まで、彼は第一線で活躍し続けたのだ。あの遺書を残したのが松濤明だったのではなく、松濤明があの遺書を残した、そう言って良い活躍ぶりである。それだけでなく、彼は、手帳に残された遺書、伸びやかな紀行文、実務的な山行報告文と、多彩な文体を駆使したすぐれた散文の書き手でもあった。とりわけ、18歳のときの「春の遠山入り」と題した文章は、自然に一人で対峙する彼の緊張と喜びが溢れんばかりに伝わってきて、読んでいるこちらもうれしくなってしまう。この本はぜひ、登山に縁のない人にも読んでほしいな。僕は山岳文学を系統立てて読んでいるわけではないので推測だけど、おそらく、加藤文太郎『単独行』や山口耀久 『北八ツ彷徨』などと並んで、日本の山岳文学の古典的名著の一冊である。
登山をするなら一冊は持て。『登山と身体の科学』
この『風雪のビヴァーク』とは異なる意味で読んでよかった本が、山本正嘉『登山と身体の科学 運動生理学から見た合理的な登山術』。タイトル通りの内容で、著者の前著『登山の運動生理学とトレーニング学』(これは分厚くて読みきれなかった)をベースに、ブルーバックスの読者層向けにコンパクトにまとめた本。事前の期待どおりとても参考になる本だった。たとえば疲労がおきる仕組みからはじまって疲労を抑えるための指針、登山のための栄養、上りと下りの歩き方、体力づくりまで、登山に関する体の仕組みを丁寧に解説している本だ。僕はこの本からかなりメモを書いて、自分の歩き方の指針としている。登山をする人は一冊手元に持っておくべき本である。
地元の里山・平尾山に接近するための本
9月の僕の登山熱は、もっぱら、地元の低山・平尾山に向けられた。最短ルートを行けば30分強で登れる山ではあるが、平均して週2回(つまり土日は必ず一回ずつ)登ったのである。平尾山は本当に良い山で、整備された登山道がいくつもあるだけでなく、となりにある秋葉山(平尾城という城が戦国期にあった)や白山から縦走することもできる。また、里山だけに、山城の本、ここを統治していた平尾氏についての本、平尾山の民話の本などが地元の公共図書館の郷土資料コーナーにあり、それを読んで楽しむこともできる。
前から登っていた山ではあるが、こうやって色々な資料を読みながら登ると、里山は本当に面白い。最近は、整備された登山道ではなく、いろいろな方向から平尾山を探索している。道なき道を歩いているのだから危険も当然あるが(熊鈴、笛、熊スプレーは必須だ)、平尾山について調べたり、地形図を見たりしながら山に登ると、知識と知識がつながっていく感覚が実感できて面白い。僕がいま登山が楽しいのも、おそらくは、初心者が知識を得て周囲の世界の見え方が変わっていくプロセスを、平尾山を舞台にして経験しているからだ。
お仕事に関係しそうな本は…
というわけで僕の興味はいまは国語ではなくもっぱら山に向かっているのだが、お仕事に関係しそうな本からも2冊だけ。一冊はすでに紹介した阿部学・伊藤晃一『授業づくりをまなびほぐす』。理論編である阿部パートと実践編である伊藤パートの関連についてはなんだかちぐはぐな印象もあるが、個人的には伊藤実践の具体を読めたことで十分にお釣りがくる。国語としてどんな力をつけたいかに貫かれている一方で、「学びによる傷つきを学びにより回復させる」ことに力を入れていて、この二つをどう成り立たせれば良いのだろうと苦心している自分にも、とても参考になる本だった。
三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、タイトルにある謎を追求しながら、日本の読書史、労働史を外観する本。明治時代から「働く人たち」がどんな本を読んできたか、その読書史を概観しつつ、自分の好きを仕事にする発想が強調され(仕事で自己実現をすることが求められ)、自己決定権が強調される2000年代以降に、人生のノイズ(=自分がアンコントローラブルなこと、外の文脈、教養そのもの)が嫌われて、自分でコントローラブルな、役に立つ「情報」のみが重視されるようになった経緯を分析する。この分析は、ほんとその通りだよなあと思う。
また、2000年代の「仕事で自己実現が求められる社会」の成立が、20年後のいま「学校で自己実現が求められる」学校の成立につながっている構図が目にうかび、ちょっとぞっとした。僕の勤務先である風越学園もふくめて、「探究」推しの近年の学校で、子どもが学校で自己実現を求められてしまうことの弊害は、もう少し時間がたてば冷静に議論されるようになるのではないか。
とまあ、今月も圧倒的に「仕事より登山」な読書記録だった。さすがに10月に入ったらもうちょっと仕事の本が増えてくる(そうしないとまずい)と思うのだけど、一方で、とにかくいまは登山への興味がわかりやすく深まっている時期。知識を得て、それをもとに色々とためして、実際に歩いてフィードバックを得て…というサイクルが面白いので、ついそっちをやってしまう。あまりそれにあらがわないように…というより、暇があればつい考えてしまうので、あらがえていないのだ。ここまで国語の授業を離れる読書生活も、ここ20年くらいの間では初めてのことなので、これがどう着地するのか、ちょっと自分でも見てみようという気になっている。