やっぱり書かないとダメだった。カンファランスとその記録、再開しました。

以前に、「カンファランスとその記録をやめてみる」というエントリを書いたのだが、その後どうなったかというと、最近やっぱりカンファランスとその記録を復活させましたよ、というお話

写真は、この夏に登った入笠山の入笠湿原。僕はゴンドラを使わずに登山口から歩いたのだけど、それでも半日で往復できる、手軽でいい山だったな。お花もたくさん咲いていた。

そもそも書かないと覚えられない…

そもそもなぜカンファランスをやめたのかについては下記エントリに書いたのでそれを繰り返すことはしない。

「しばらくカンファランスとその記録をやめてみる」宣言

2024.05.01

それをなぜ復活させたかというと、非常に単純な理由で、「そもそもカンファランスしないと、そしてそれを書かないと、何も覚えてない」事実があまりに退屈だったからである。これは、僕はもともとメモを取らないとTodoも覚えられずに仕事を忘れてしまうレベルなのだけど、それと同じように、カンファランスをしてそれを書かないと、子どものことを何も覚えていなかった。その日クラスで一人だけ「作家の椅子」に座って共有の時間をした児童のことも、話した内容どころか「あれ、今日の「共有の時間」やったの誰だっけ?」レベルで思い出すのに時間がかかるのだ。僕は文字情報の記憶力はそれなりにあるのだが(なので、学校歴だけはしっかりある)、自分の行動とか、人の顔と名前とか、そういう「非言語情報の記憶」はてんでダメな人間で、授業でも書かないでみたらやっぱりダメだったというわけだ。

そんなふうに、カンファランスをせず、その記録をとらないことで、僕は子どもの様子を全く把握できなくなった。それが作品集の質に影響を与えたかというと、大きな出版は一度だけなのでそれを論じるほどの材料もないのだけど、この「わからなさ」に耐えるのがもはや苦痛になってカンファランスとその記録を再開した、というのが正直なところだ。作品の質はどうあれ、僕が「書き手としてのストーリー」を描けなくなって、楽しくなくなってしまったのである。

あらためて良い本!「ライティング・ワークショップ」

そんなことを自覚しているところへ、ラルフ・フレッチャー&ジョアン・ポータルピ『ライティング・ワークショップ』を再読する機会があったのだが、この第5章「書き手とのカンファランス」がとても良かった。

これ、無茶苦茶いい本なのに、いまアマゾンで見たら中古しかない…。まさか絶版になっちゃったの?

カンファランスのもつ可能性や、教師が子どもを一人の書き手、プロセスの中にいる書き手としてとらえてその変化をサポートしていくための具体的な進め方が書かれていて、そりゃまあ基本といえば基本なのだけど、改めてカンファランスっていいな、と思ったのだ。思ったら、「なんで自分は、退屈な思いまでしてカンファランスを我慢してるんだろう」と、なんだか急にバカバカしくなってしまった。楽しくないことを続けるのは間違っているので、カンファランスを復活させた。おかげで、最近は授業が楽しい。

「書かれなかったことは、なかったこと」な人間

考えてみると、僕はとにかく書く。このブログや、それとは別に読書記録。最近このブログの更新頻度が減っているのは国語よりも登山に関心が移っているからだが、実は登山でも、下山後に「下山メモ」を毎回書いている。書くことで、今回の山行をふりかえり、次回に向けて考える。書くことでふりかえっている。

書く、という行為は、僕にとってやはり大きいようだ。すぐに消えてしまう経験を書くことで再構成し、文字として定着させ、あとから閲覧可能にすることで、記憶に残す。書いたこと以外はすっかり忘れてしまう。中島敦の『文字禍』ではないが、「書かれなかったことは、なかったこと」。僕は良くも悪くも(いやまあ、これは悪い方が大きいか)そんな人なのだと思う。

自分はりんちゃんのような、エピソード記憶が抜群の凄腕教師の誰かにはなれないし、自分の良さも欠点も肯定してやっていくしかない。それは、自分がご機嫌で生きていくための大前提である。そうでないと、他者との比較で自分を苦しめてしまうから。それをふまえた上で、いったんはあえて自分の得意(書くこと)を封じて、何か自分の授業に変化を起こそうとした心持ち自体は「いいぞ」と今でも思う。でも、やってみて違和感というか、物足りなさ、できない思いのほうが上回ってしまった。やはり書くことは自分にとって欠かせないんだな。そんなオチの実験の顛末だった。

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