[ITM初版]アトウェル、ライティング・ワークショップに出会う

I Confess.
 



In the middle初版は、この書き出しで始まる。それから彼女は、自分がいかにカリキュラムを作りこむのが好きな教師で、それに自負を覚えていたかという告白を始める。第二版にも引き継がれているこの書き出しが、僕はとても好きだ。(第三版では別の書き出しに変わっている)




ライティング・ワークショップにとまどうアトウェル

初版は、彼女の初めてのIn the Middleだけあって、後の版よりも「ライティング&リーディング・ワークショップ前」の彼女の様子や、ライティング・ワークショップを前に戸惑う彼女の様子が詳しく描かれている(これは第二版だと結構残っているが、第三版だとあまり見られない)。初めてライティング・ワークショップのことを聞いた時の彼女の反応は、次のようなものだった。


スーザンがアトキンソン・アカデミーのライティングの授業について私に話した時、8年生(中学二年生)の英語の授業でのワークショップなんて絶対に間違っていると思った。実際、それは危険だと思った。予測不能の大きな子どもたちが、いきなり自分でお題を設定する自由を与えられて、教室内をうろつき回って、友達とおしゃべりをして、彼らなりのアイデアや興味について書くなんて。(p40)
 



私はどうやって生徒に責任を分け与えればいいのかわからなかった。それに、私が本当にそれを望んでいるのかどうかも。私は教師用の大きな机に守られているのが好きだった。書くべきお題を設定し、ペースややり方を指定して、プロセス全てを自分の責任で周到に用意するのが好きだった。それが私の仕事ではないの? それが生徒のもとに渡ってしまったら、私は何をするの? (p11, 第二版ではp13)
 



他にも、まだワークショップに出会う前の様々な自己正当化(もっと良いライティングのアクティビティがあったら。もっと良い生徒たちだったら。もっと良い同僚に恵まれていたら!)についても書いてあった。

アトウェルの転機は、生徒に目を向けたこと

 



こういうアトウェルの告白は、いくら偉大な教師であるとは言ってもやはり等身大の人間なんだと感じさせてくれて、もう迷いがなくなり自分のやり方に確信を抱いている第三版のアトウェルよりも、なんとなく好ましい。アトウェルほど徹底できない凡人の僕たちは常にこうした戸惑いの中にいるから、そう思うのだろう。

戸惑いつつも彼女は、生徒たちにライティング・ワークショップをやりたいか聞き、そしてやりたいという返事を得て、実践を始めていく。読解の授業はまだしばらく従来型の、彼女の言葉で言うと教師が「大きな机の後ろにいる」授業を続けるのだけれど、それもワークショップ型に切り替えていく。その先に見えてきたのは、これまでとは違う風景だったようだ。


私は最近、自分の教室の中で学んでいる。それは、これまで私が作ってきたもの(カリキュラム)を捨てたからだ。私はそうしなくてはいけなかった。私が自分自身や自分の授業法ばかり見るのをやめて、生徒たちと彼らの学びに目を向けた時、私が見たのは、自分と彼らの間にある大きな裂け目だった。それは、私が言葉の教師としてやってきたことと、彼らが言葉の学び手としてやってきたことの間にある裂け目だった。p4
 



「授業者である私」ではなく「学び手である彼ら」に目を向けること。それが、アトウェルのワークショップ型の授業の原点だったようだ。

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