前回までの2つのエントリに引き続き、アトウェルの学校の見学レポート第三弾。
見学の最終日の休憩時間に、見学仲間の間で「では、君は学校に戻ったら次のステップに何をやるんだ?」ということが話題になった。「ここはすごいね」「うちは○○だからできないよ」で見学を「消化」してしまう人もいる中、大変良い見学仲間に恵まれたと思う。というわけで、今回はアトウェルの学校の取り組みを参考にして、自分がこれから何ができそうなのか、現時点での思いつきを将来のためにメモしておきたい。
目次
授業の中にリーディングの時間を設ける
日本に戻って本格的に取り組みたいのが、リーディング・ワークショップ。
正直に書くと、「一つの教材をみんなで精読しなくて本当にいいのかな?」という迷いや不安が、僕には今でも根強く存在する。個人的経験としては学校の国語の授業で国語力がついた実感はないし、10時間かけて高々20-40ページの文章を読むような精読よりも、まず読み書きの圧倒的な量が必要だろうと思ってはいる。それでも、特に高校において精読をやらないというのは、相当に勇気がいるのだ。特に文学の定番教材は、国語教師であるからにはやらないといけないような雰囲気を感じるし、論説文についても「精読をしないで大学入試に対応できるだろうか」という不安もある。かくして、特に高校だと小説も精読、論説も精読、となってしまう傾向がある。
でも、CTLの生徒たちの質量ともに豊かな読書とその結果である彼らの力量を見ると、改めてリーディング・ワークショップの力を実感せざるをえない。それぞれの好みや違いはあっても、みんな相当厚い本(見学仲間の先生によると高校生向けの推薦図書も含まれているそうだ)を読んでいる。これは、ワークショップという授業形式が生徒をよく鍛えている証拠。
だから、全部をリーディング・ワークショップにするのは無理でも、学期のうち3分の1から4分の1くらいは、「読書月間」的にリーディング・ワークショップをやってみたい。精選された従来型の教材と共存しつつ、個別の読書の時間を少しずつ増やしていきたい。まずは学期のうちの一ヶ月程度とか、あるいは毎週1回ずつとか、そういう形で取り入れていきたいと思う(もちろん、本当はアトウェルの学校がそうであるように、毎日やるべきなのだけれども)。
詩をもっと積極的に取り扱う
CTLの先生たちは本当によく詩を使う。毎日、どこにでも詩がある。その理由には、もともともアメリカの教育で日本よりよく詩を使う傾向があるとか、彼らが詩が好きだというのを超えて、詩を扱うことが言語技術を教える上で有効だ、という認識がある。ミニレッスンでも、効果的な表現や対比などについて生徒に問いかけて、好き嫌いではなくて分析をさせている。詩には様々な言語技術が短い中に凝縮されている、読んだことをすぐに書くことに活かせる。書く時間もそうかからないので何度でも推敲でき、達成感も得やすい…。そういう認識があるようだ。
日本の国語の先生では、どちらかというと「生徒に詩の書き方を教えることなんてできない」「生徒が書いた詩を教師が評価するのはおかしい。表現は人それぞれなのだから」という信念の人が多い気がするので、これは僕には面白い。
で、もう少し自分も詩を「言語技術を教える」という観点から取り扱ってみようかと思った。僕はこれまで、授業の冒頭に詩を音読して紹介することはあっても、あえて「紹介」にとどめていた。これからも別に何時間もかけて「解剖」「分解」?するつもりはないけど、もう少し「言語技術を教える」という観点から詩を見直してみようと思う。
字数制限をもっと短くする
僕は「質より量」派なので、ついたくさん書くことを良しとしてしまう傾向がある。でも、アトウェルの学校では、最も長くてもA4の用紙2枚までだった。文字制限を厳しくすることには、「一度の教師の負担が減る」「推敲がしやすくなる」「色々な種類の原稿を書けるようになる」など幾つかのメリットがある。こうしたメリットを意識して、原稿用紙5枚分(2000字)くらいにしても良いのかなと思う。もっとも、きちんと調べて根拠を示して…という文章だと原稿用紙10枚分くらいは必要になるので、ジャンルにもよるのだろうけど。
10代の子どもたちが読む本をもっと読む
今回の見学で印象的だったことの一つが、アン先生もグレン先生も、教室にあるティーン向けの本を本当によく読んでいるということだ。読んでいるからこそカンファランスも自信を持ってできるし、生徒に本を薦めても説得力がある。僕たちはつい大人向けの評論・授業向けの本・入試の素材になりそうな本を読みがちだけど、その時間を削って、もっと10代が読む本を読むべきだと思った。
教室外の発表の場をもっと開拓する
今回、僕が見学したグレン先生のライティング・ワークショップでは、Letter of Change(要望を出して現状を変えてもらう手紙)を書く授業のミニレッスンをやっていた。また、アン先生のライティング・ワークショップでは、ちょうどAdvocacy Journalismの初回のミニレッスンだった。どちらも、教室の外にいる読者に向けて書くジャンルの文章だ。
僕の授業では、教室外の本物の読者に向けて書く、という経験がまだまだ足りないなと思う。下記エントリなども参考に、もっと教室の外での発表の場を開拓する必要を感じている。
教室内の協働的活動の可能性を追求する
これは、あえてCTLとは違うことをやってみるよ、という話。
CTLでは協働的活動があまりない
グレン先生もアン先生も、ピア・カンファランスには消極的だった。カンファランスはライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの要であり、プロである先生の受け持ち…という考えだ。それも確かに一理ある。また、ライティング・ワークショップが静けさをとても大切にするのに、ピア・カンファランス中心になるとついうるさくなるのも事実だろう。ピア・カンファランスは、少なくともアトウェルの学校ではあまり重視されていない。また、ラルフ・フレッチャーの下記の本では「ミニレッスン」「書く時間」と並んでセットになっている「共有の時間」も、アトウェルの学校にはない。
とにかく、個人作業が軸で、それを個々に先生がサポートする、という形なのだ。
日本では協働的活動が必要
しかし、僕はここではもっと協働的活動の質を高めていこうと思う。大きな理由は、40人学級(×複数クラス)では教師によるカンファランスが到底無理だからだ。教師のカンファランスができない以上は、やはりピア・カンファランスや共有の時間を使っての生徒同士で高めていくしかない。これはある意味で教師のカンファランス以上の難問だとは思うのだが、40人学級でライティング・ワークショップをやる以上は、そこに可能性を求めていくしかないだろう。また、こうした活動には、「教師がやるのは無理だから」という消極的理由以上の効果も存在すると思う。他者との関わりが、自己の活動のメタな捉え直しや自立につながるのではないかと思っている。実はアトウェルと直接お話しした時にそのような考えを告げたところ、励ましの意味も込めてだと思うけど賛同の言葉をいただいた。挑戦に値することだと思って、当面はこの方向で授業の質を高めていきたい。
欠陥はあるけれど…
もちろん、このせいで犠牲になるものもある。ピア・カンファランスが常時行われるようであれば書く時間の静けさが台無しになってしまうし、かといって、僕の過去の授業のように下書き提出日を決めて一斉にピア・カンファランスをするようにすると、今度は生徒の書くサイクルの個別性が保証されなくなる。こうした欠陥は承知しつつも、幸い、ピア・フィードバックについては第一言語・第二言語を問わず英語圏で研究の蓄積もあるようなので、それらを参考に効果的なピア・カンファランスや共有の時間のやり方を考えていきたいと思う。
でも、まずは家内安全が第一
以上が、今回の見学を受けて考えたこと。ただ、僕には以上のすべてに優先して「家内安全」「仕事をしすぎない人生を送る」という目標があるので、このすべてをやるのは無理。負担の少なそうなところから、具体的なアクションを起こしていきたい。CTLでやっているようなライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップをそのまま40人学級でやることは端的に言って無理だと思うだけど、可能な範囲で授業の質を上げていけたらと思う。