アトウェルの生徒たちはどこで「他者の目線」を獲得するのか

『イン・ザ・ミドル』を読んでくださった垣内玲(@R_Kakiuchi_0921) さんが、アトウェルの授業と受験指導を対比して「「国語」とは何を教える教科なのか」という論考を書いてくださいました。

「国語」とは何を教える教科なのか

https://note.mu/r_kakiuchi_0921/n/ndfd83109024f

今日のエントリは、この垣内さんの指摘に対する応答です。というわけで、まずは垣内さんの論考をお読みください。

「他者の立場の目線でテクストを解釈する力」

垣内さんは、現在のご自身の立場が受験国語をせざるを得ない現状であることを踏まえつつも、仮に自由に授業ができる環境・能力があったとしても「授業のメインはアトウェルが批判する「一斉授業」形式の、正解の存在を前提とする授業になる」と述べ、その理由として、受験国語が持つ(そしてアトウェルのリーディング・ワークショップにはない)「自分とは違う立場の他者の目線でテクストを解釈する力」を育てる機能を挙げられています。論考の最後は次のように結ばれています。

ただ、自分個人の「自由な読み」ではなく、テクストを提示した相手の意図を、今自分が置かれている状況と、相手の立場を踏まえて最も適切な解釈を考えること。それが、文学鑑賞としての国語とは違う、いわゆる「受験国語」を学ぶ意義であると、従って国語には「正解」があってしかるべきであり、間違いは許容されないのであると、伝説の国語教師に、僕は精一杯に反論するのです。

なお、垣内さんは受験国語「のみ」をやるべきだとも、文学鑑賞はいらないとも言っていませんので、そこは注意してお読みください。

僕の授業ではどうしているのか?

一方の僕は、受験対策を授業で求められない学校に勤務しています。そのためいわゆる受験対策(問題演習)は一切しておりませんし、リーディング・ワークショップも気兼ねなくできるのですが、とはいえ、僕の読みの授業の全てがリーディング・ワークショップではありません。時数は相対的に少なくなるものの一斉授業形式の読みの授業もしますし、高校生になると、野矢茂樹さんの『論理トレーニング』をテキストにした「論理国語」的な授業もしています。

それはおそらく、垣内さんの指摘と同じ問題意識があるからでしょう。確かに、リーディング・ワークショップを通じて好きな本をたくさん読む経験は、選書の経験、読み浸る体験、読書と生涯つきあうきっかけ作りを生徒に提供し、生徒が「生涯にわたる読み手」(lifelong reader)になることを助けます。また、能力としても選書能力や語彙やスピードの増強に繋がるとも考えています。けれど、リーディング・ワークショップだけでは、やはり自分と異なる他者の読みに対して自己を開く契機が不足するのでは、という危惧もあるのです。そのため一斉授業形式で評論を扱う時は、「自分の考えは一旦脇に置いて、筆者の論理を丁寧に追うこと」を重視する、地味な授業を展開しています。

では、アトウェルの授業では、どのように「自分とは違う立場の他者の目線でテクストを解釈する力」を育てているのでしょうか。あるいは、そのような力はあの授業では育たないのでしょうか。以降、それについて考えてみます。

アトウェルの授業では「他者の目線」をどのように確保しているのか

僕の考えでは、アトウェルはおそらく「読みに唯一の正解がある」とは思っていませんし、「唯一の正解」を生徒が正確に答えられるような訓練もしていません。しかし、一定程度の範囲に収まる「妥当な読み」レベルであれば、アトウェルの授業でも生徒の「他者の目線でテクストを解釈する力」は育つ。僕はそう思っています。というのは、アトウェルの授業(ライティング/リーディング・ワークショップ)は、「好きな本を選んでただ没頭して読むだけ」ではなく、書き手の論理の内在化を求める授業だからです。次の要素に従って確認していきましょう。

  1. リーディング・ワークショップ中のチェック・イン
  2. 全員での詩の精読
  3. レター・エッセイ
  4. ライティング・ワークショップ

リーディング・ワークショップ中のチェック・イン

まず、アトウェルは生徒のリーディング・ワークショップ中にチェック・イン(カンファランス)をします。非常に簡単なやりとりながら、アトウェルはこのチェック・インで生徒と感想を交換したり、例えば作者の語り口について助言したりもしています(『イン・ザ・ミドル』p285)。こうした会話の中で、アトウェルはときおり生徒に「自分がこのテクストをどう読んだか」を受け渡しているのです。

全員での詩の精読

また、アトウェルの学校では毎日全員で詩を精読します。ここでは、詩の技法や詩人についても詳細に学び、「批評家として詩を読む」ことを求めています(『イン・ザ・ミドル』p224)。生徒は決して自由に詩を読めるわけではなく、一定の詩の技法や、そこに現れた詩人の意図を読み取ることが求められています。

レター・エッセイ

こうして教えた知識を使って生徒に「批評家として文章を分析すること」が求められるのがレター・エッセイです(『イン・ザ・ミドル』p290)。レター・エッセイでは、生徒は詩の精読やミニレッスンを通じて得た読みの視点を生かして、作品のテーマ、語り手、筋、描写などについて分析的に書き、それについて教師からのコメントを受けます。ここで、生徒は書き手の使った技術や書き手の意図を読み取りながら、それについて批評家として論じなければなりません

ライティング・ワークショップ

最後に、アトウェルの学校の生徒たちが「他者の目線」「テクストの書き手の目線」を獲得するのに最も貢献しているのはライティング・ワークショップではないか、僕はそう考えています。というのも、アトウェルの学校では様々なジャンルの文章を「ジャンル学習」として学ぶのですが、そこでは必ず「優れたモデル作品の分析」から入るからです(『イン・ザ・ミドル』312ページの訳注16に記載があります)。アトウェルのライティング・ワークショップは、決して「思ったことを自由に書く」授業ではありません。「優れた書き手は何をしているのか」という分析から入り、その書き方を意識して書きます。

こうして書くことは「書き手のレンズ」を生徒に与え、生徒は書き手としての視点から文章を読むようになります。僕の授業でも、

普段自分たちが読んでいる小説がどのような筆者の思考に基づいてつくられているのかを、自分が小説家になるという経験を通じて理解することが出来ました。(去年の三学期の授業で小説を書いたある生徒の感想)

という感想が、毎回必ず出るくらいなので、ライティング/リーディング・ワークショップを全面的に展開するアトウェルの授業は推して知るべし。彼女の学校の生徒たちは、書くことと読むことを一年を通じて繰り返す中で、「他者(書き手)の目線」を獲得するのです。

「自由に読みひたる」だけではないアトウェルの授業

もちろん、アトウェルの読みの授業の核が、好きな本を自由に読みひたることにあるのは間違いありません。このような「個別読み」実践は、英語圏ではIndependent Reading(IR)やSustained Silent Reading(SSR)とも言われています。しかし、こうした取り組みにいろいろなバリエーションがあるように、アトウェルの授業も、「ただの自由読書」ではありません。そこには、上記のような仕掛けを通じて、冒頭の垣内さんが期待するような厳密なレベルではないのかもしれませんが、生徒が「他者の目線」を獲得するための働きかけがなされている。僕はそのように考えています。

なお、SSR実践のバリエーションについては、Garan, E., & DeVoogd, G. (2008) の論文がよくまとまっています。

Garan, E., & DeVoogd, G. (2008). The Benefits of Sustained Silent Reading: Scientific Research and Common Sense Converge. The Reading Teacher, 62(4), 336-344. doi: 10.1598/rt.62.4.6

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