In the Middle読書記録。168-181ページには、リーディング・ワークショップの基本的な進め方について書いてある。
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アトウェルの読みの授業の基本方針は明快だ。「集中して、たくさん、頻繁に読むこと」である。とにかくたくさん読むことが読解力を伸ばし、読みを習慣づけてlifelong readersにするのだという断固たる指針のもとに、 ワークショップを運営している。「To practice, practice, practice―」という言葉(p170)には、迫力を感じる。
そして、図書館業界の方にはおなじみのペナックの「読者の権利」をかかげ、「読みたい本を選ぶこと」「読むのをやめること」「読み返すこと」についての自分なりの基準を、長い時間をかけて構築することを奨励している。
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とにかく、自分で読みたい本を選び、たくさん、速く読むこと。これがアトウェルの授業で目指されていることである。でもそれは、「自分の好きなものを読んで楽しみましょう」という楽しみ重視のスタンスではなく、「それこそが読みの力を伸ばすのだ」という確信のもとに行われているのだ。ベースには、認知科学的なモデルも引用されていて、流暢な読み手は豊かな経験に裏付けられた多くの記憶を長期記憶に入れているからこそ、全体をひとまとまりとしてとらえることができる、という説明がされている(p173-175)
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面白いことに、アトウェルは「読む時に音読すること」「線を引くこと」「鉛筆を使うこと」を「悪い習慣」(bad reading habit)として、生徒にはそれをやめるように言っている。どちらも、読むスピードを落とすからだ。読むスピードが落ちれば、それだけ全体を一つのまとまりとして認識しにくくなり、バラバラになって理解が繋がらなくなる。そう考えている。
このへんは、どうなのかなあ。この本を僕と一緒に読んでいる方は、新書だけでなく小説も線を引いているそうだ。「何年も前に読んだ小説を読みなおした時に、昔こんなところに線を引いていたとわかると面白い」とおっしゃってて、それも読書の楽しみだよなと思う。
また、アトウェル自身も、歴史や科学の本を読んで内容を理解し、記憶するための読書では、鉛筆で記号をつけることを奨励している(p180)。このへんはアトウェルの中ではどう整合性をつけているのだろうか、と少し疑問も残った。
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とはいえ、アトウェルのこのリーディング・ワークショップ、日本の国語教育と比較した時に、全体としてあまりに対照的なのが面白い。日本の国語の読解の授業では、「教師が決めた一つのテキストを、全員で、時間をかけて精読すること」が典型的だ。音読もすれば、評論の読解の際には同値や対立などを表す表現に線を引かせることもある。全てが、アトウェルのリーディング・ワークショップの逆である。アトウェルの教室では、みんながばらばらに自分の読みたい本を選び、たくさんの本を、速いペースで、途中で読むのをやめる選択肢も行使しながら読んでいく。
どちらが優れているのか、僕にはにわかに断言しにくい。しかし、僕自身は、アトウェルの授業にもシンパシーを抱いている。それは僕自身が、学校の国語の授業のおかげで国語力が伸びたという自覚を全く持てず、小学校や中学校時代の読書量が自分の基盤になっていると感じていることと無縁ではない。かつて下のエントリにも書いたけれど、リーディング・ワークショップ的な授業が、現在の典型的な読解の授業の代わりになる選択肢として、日本の国語教育に入ってきてもいいと思う。