アトウェルのワークショップでは詩を読むこと/書くことがとても重視されている、という話を以下のエントリで書いた。
日本の中高の国語教育では、教師自身が詩人である場合を除けば、一般的には詩を書くことはあまりなされていないのではないか、と思う。あくまで自分や娘(9歳)に関わっての感覚では、小学校ではわりと頻繁に詩を書いている気もするが、中高ではそれはむしろ例外的ではないかな。どうだろう?
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善かれ悪しかれ、国語教師に「自分には詩の書き方は教えられない」「いや、そもそも、詩を書くのは、技術ではなく個人の個性や創造性に属することで、教えるとかそういうことを超えたものなのだ」という信念がある気もする。以下の竹本寛秋さんの論文では、明治期の新体詩の作法書と大正期の詩の作り方の本を比較して、「詩の作り方を教えることはできない」という言説が生成していく過程を論じていて、とても面白い。 詩が誰にでもできる自然な感情の発露とされることで、かえってその源泉が個性というブラックボックスに閉じ込められ、創作方法が秘技化していく流れがわかる。
▷竹本寛秋「詩の作り方を教へることは出来ません」 : 大正期「詩の作り方」が生成する「詩」概念についての一考察」(北海道大学学術成果コレクション)
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こうした事情は海の向こうでも同じなのか、The SAGE Ahndbook of Writing Developmentに収められたAnthony Wilsonの論文 “Creativity and Constraint: Developing as a Writer of Poetry”によると、日本よりはよほど詩が身近な英語圏でも、「詩の書き方を教えることができない」「評価もできない」とする態度がある程度あるそうなのだ。上記論文は、こうした背景をふまえつつも、「Creativityをどう教えるか」「詩の書き方をどう教えるか」という問題に取り組んでいるようだ。「ようだ」と書いているのはまだ漠然としか読めていないから。制約を与えることと選択肢を与えること、そのへんが鍵になるっぽいのだけど、こういう時、英文を「ざっと斜め読み」できない自分の英語力が恨めしい。こつこつ読んで、いつか必ず…と思う。
また次の本では、序盤の先行研究の概略を記す箇所で、作文教育における創造性についての研究についてもさらっと言及されている。そこでは、創造性が育つ環境として、「生徒が民主的に参加できること、オーナーシップを生徒が持つこと、自分の選択について生徒が自信を持って見積もれること、リスクが取れること、楽しいこと、実験的であること」などが指摘されていた(p22-26)。
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僕個人は、詩を書くことが教えられないとは思わない。もし「個性や創造性は教えられないから」を理由にしたら、音楽や美術だって教育できないことになる。もちろん詩を含んだこれら芸術は、最終的には個々の感性に委ねられる部分が多く、そこは教えることも評価することもできない。しかし、一般的にそのジャンルにスタンダードな技術はあるだろうし、それは教えること、学ぶことが可能なはずだ。また、そうした技術を知ることは、芸術を鑑賞するときの着眼点を得ることにもつながる。鑑賞の目を養う一環として「自分もやってみる」ことは多いに「あり」だと思う。
ただ、そのためには教室の環境も含めて、考えないといけないことがいくつかありそうだ。今すぐには無理だけど、自分の授業の中でももっと積極的にチャレンジしたい部分ではある。