選択と強制のあいだで:オンラインでのライティング・ワークショップはじまる。

軽井沢風越学園では分散登校が始まった。ゴールデンウィーク明けからいわゆる「授業」も本格化しつつあって、個々のプロジェクトとともに、国語の授業としてのライティング・ワークショップ(作家の時間)とリーディング・ワークショップ(読書家の時間)も始まっている。今日のエントリでは、分散登校の中で始まったこの時間を振り返ってみたい。

写真は、自宅から徒歩30分ほどを流れる川のほとり。ちょっとイギリスのフットパスを思い出させる景色だった。

自立した学習者に育てることと、無理やり自立させることの違い

風越のスタッフには、生徒が自分で時間や学習法を組み立てることを大事にしたい人が多い。でも、その中では僕自身は、それらをある程度指示してしまうことに、あまり心理的抵抗がない方だ。というのも、自分で適切な時間配分や学習方略を採用できるのは、そのための学習リソースもメタ認知能力もすでに持っている人に限られてしまうからである。訓練である程度補うこともできるとはいえ、自分で学習計画や学習方略を選択することが、義務教育学校の発達段階の子の脳に過度な負担をかけている点はかわりない。教育研究では、学習における教師の直接教授やドリル学習の効果の高さ、本人が好む学習法と学習成績との相関の低さなどには研究上のエビデンスがあることからもわかるように、「自立した学習者に育てることと、無理やり自立させることは違う」(デイジー・クリストドゥールー)。その客観的事実から、僕は出発したい。理念が先行しがちな進歩主義教育への、認知心理学からのこうした批判については、下記の本が参考になる。

[読書]知識の大切さを改めて思い知る、デイジー・クリストドゥールー「7つの神話との決別:21世紀の教育に向けたイングランドからの提言」

2019.04.29

[読書]認知心理学の成果を教育現場に活かす。ダニエル・ウィリンガム『教師の勝算 勉強嫌いを好きにする9の法則』

2019.05.01

とはいえ、一方で、逆に時間割や学習方法を大人が全てガチガチに決めてしまっては、生徒のモチベーションにも関わるし、何よりそれがずっと継続されると、自分で選択する練習をいつまでたってもできない。したがって、大事なのは、いきなり「さあ、自由に選択しよう!」と声をかけるのではなく、教員が強制的に学習内容や学習方略を与える段階から、どうやって徐々に責任を生徒の側に譲り渡していくのかというプロセスにある。フィッシャー&フレイの「責任の移行モデル」で、指導を4種類に分けている妥当性はここにある。

  1. 焦点を絞った指導…主に、クラス全員に対して短時間の一斉指導をする段階。教師が全員に向かって目的を示したり、モデルを示したり、考え聞かせをしたり、生徒たちの様子に気づいて次に何をすべきか判断したりする。
  2. 教師がガイドする指導…必要のある小グループに対する補助的な指導をする段階。教師が生徒に質問したり、ヒントを与えたり、直接指示したりして、生徒が自分でできるように足場がけをする。
  3. 協働学習…生徒が学んだ知識やスキルを使って学び合う段階。生徒は他の生徒との継続的なやりとりを、授業で使うアカデミックな語彙を用いて、会話に責任を持つ形で行う。
  4. 個別学習…生徒が一人で学ぶ段階。生徒はメタ認知や自己調整を繰り返して自分の学習を進め、教師はそれにフィードバックをする。

 

始まったばかりの、オンライン中心のワークショップ

こういう観点から、いまオンライン中心に始めつつある僕のライティング&リーディング・ワークショップを見直してみよう。今のところ、僕は自分が取り組んでいたこの授業の枠組みをそのまま再現はしていない。zoomの同期型授業で、学校でやる50分授業の構成をそのまま再現するのは、生徒の集中が持たなくて無理だと思ったから。

そこで、ゴールデンウィーク明けからとりあえずスタートしたのはこんな形だった。まず、朝に20分のミニレッスンを行う。その後は自分で自由に時間を使って作品を書いたり、本を読んだりしてもらうのだ。そして、僕は自分のzoomを1時間くらいオフィス・アワー的に開いて、相談したいことがある人向けにカンファランスをする…。

まだ始めたばかりだけど、すでに「このままだとまずいな」という予感がある。というのも、ここにはフィッシャー&フレイの言う「焦点を絞った指導」(→ミニレッスン)と「個別学習」(→自分で読み書きする時間)しかないからだ。これは、ミニレッスンを活かして自分で読み書きを進められる、いわば「ある程度意欲があり、自立している学習者だけが生き残る仕組み」なのである。MOOCSの修了率の低さからもわかるように、オンラインのミニレッスンを活かして前に進める自立した学習者は、大人でも圧倒的な少数派。これではただの選別で、教育ではない。

もっとも、zoomでやっているオフィス・アワー的な時間は、「教師がガイドする指導」にあたるだろう。今のところカンファランスに一人20分くらいかけられることもあって非常に快適なのだが、これすら「課題意識を持ってわざわざzoomにやってくる」時点で、その学習者はかなり「書ける」生徒に違いない。そこから漏れる生徒の姿はこちらに見えにくい。

学校という場の持つ強制力を使う

現在の僕の授業に欠けているのは、(任意の希望者ではなく)全員をカンファランスする「教師がガイドする指導」の仕組みと、「協働学習」の場の設定だ。そして、僕はここをこれまでオフライン=学校という場の力に依存してきたんだなと気づいた。学校であれば、休み時間や廊下ですれ違った時などのちょっとした時間を使って生徒に話しかけたり、授業中の「書く時間」を使って、集中的にカンファランスを進めることができる。

また、「協働学習」もオンラインよりもずっと容易だ。みんなで読み書きをする場を強制的に設定することで、「読み書きの共同体」感覚を生じさせ、書くことや読むことに前向きではない生徒も、その関係性の力で読み書きに向かうことができる。「ただ学校に集まって、同時に授業をする」という単純な強制が持つ力を、今さらながらに思い知っているところだ。これからは、オンラインでの学習だけでなく、分散登校の時に使える学校という場の強制力をどううまく使うか、積極的に考えないといけない。

選択と強制のあいだで

今の風越学園は、週二日の分散登校。「せっかく学校に来られる時間なのだから、個々がやりたいプロジェクトに没頭してほしい」気持ちと、「学校という場の強制力を使って読み書きの土台を支えたい」気持ち。それはどちらも僕の中にある。個人の選択と、強制されたカリキュラム。個人の選択に全部委ねるのではないし、教員が全てを決めるのでもない。そして、徐々に委ねていくための学習環境を、オンラインやオフラインを問わずどう整えていくか。例えば、僕はいま5分くらいのミニレッスン動画を作って配信することを計画中なのだけど、ある程度自立した学習者にとっては、自分の好きなタイミングで学習事項を選択的に学ぶツールになるはず。そうやって個人の選択を支援する用意をしつつ、同時にがっちりと学習者集団をホールドする場も持つこと。選択と強制のあいだで、学習者が自立して学ぶ力をつけていくことが大事なのだろう。

新型コロナの流行によって、僕たちは「オンライン」という学校外の学習の可能性にも目がいくようになった。でも同時に、学校という場の力にも改めて気づかされている。それは、学校教育における選択と強制の問題を、これまでよりも広い文脈で捉えられるようになったということもである。まだ気がはやい話だが、コロナの流行が収束した後も、生徒によっては「午前中は学校で学び、午後は家庭で必要に応じてオンラインでつないで」みたいな学習スタイルだって可能なのだ。そんな未来も視野に入れつつ、今は目の前のできることに取り組んでいこう。

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