『学び合い』を実践されているなおたかさんが、ブログで次のようなエントリを書かれていた。
▷ 誤解ですよね? (nao_takaの『縦横無尽』)
僕は『学び合い』は実践していないけど、ここ近年は授業では自分の読みをあまり示さず、生徒たちのグループ活動で問いを立ててそれを解釈することも増えてきたので、これを自分に引きつけて「生徒が自由に解釈する文学作品の読解の授業だと、深い読みができないのか」という問いとして考えてみた(だから念のため書いておくと、これから書くことは『学び合い』とは関係がない。なおたかさんの名前はかねがね伺っているしブログも拝読しているけれど、直接の面識もないし)。
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結論から言うと、この問いには、
・「深い読み」の「深い」とは、誰にとって、どういう意味での深さなのか?
・上記の「深さ」の定義についての決定権を誰が握っているのか?
という別の問いが潜んでいて、それによって答えはイエス(深い読みはできない)にもノー(深い読みができる)にもなると思う。
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まず、今日は「イエス(深い読みはできない)」の方を。この「深い読み」を「その解釈共同体(ここでは日本語を理解する人)で生まれたこれまで解釈の中でも独自性を持ち、かつ根拠を伴った説得力もあるもの」、と考え、ある程度客観性も確保できるものと考えると、「生徒同士の読みでは深い読みはできない」と思う。「できない」は言い過ぎだけど、少なくともこれまでの文学の先行研究よりも深くなることは考えにくい。
まあ、それって当然のことで、教室での文学作品の読解の授業は、「同時代・同世代・同地域・さらに受験があるなら同学力の人たち40名が、一日のうちのほんの40〜50分を、数回費やす」程度に過ぎないのである。それに対して先行研究は「何世代にもわたった色々な年齢の人が、読むための技法の訓練を受けた状態で、文学作品について、書くことを通じてお互いに解釈を書いて伝えあった結果の蓄積」なのだ。単純に関わっている人やその多様性、費やされた時間を考えただけでも、生徒達の方が「深い読み」ができると考える方が正直どうかしている。
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僕も職業教師なので生徒が披露した解釈が自分にとって既知のものであっても「おお、それ深いね!」と反応することはよくある。しかし、その多くはその子を励ます意味での「演技」が多少は含まれているし、それを抜きにして生徒の読みを「深い、面白い」と感じている時の僕は、おそらく、
・「あの生徒がこんな風に読むのが面白い」 と、生徒の文脈に引きつけて面白がっているか
・単純に自分の先行研究不足だったか(論文を読んでなくて、すでに存在する考えであることに気づかないか)
の、いずれかである。おそらく、国語教師が言う「生徒の読みは深い!」の多くはこの2パターンのいずれかもしくは両方に帰着するのではないかと思う。
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実際、先行研究が豊富な作品(いわゆる定番教材)であればあるほど、生徒の読みが先行研究の範囲を超えることはまずないし、「生徒の意見」よりも先行研究の方が深く、幅広く、面白い。先行研究の厚みや多様性は、一教室をはるかに超える。であるから、単に「客観的な独自性と説得力を備えた読み」という意味での「深い読み」を追求するのであれば、「生徒同士で自由に解釈する」よりも、極端に言えば「教師がこれまでの先行研究の解釈を一方的に話す」方が、「深い読み」は経験できるはずだ。生徒の活動にこだわって、かつ時間もあるのなら、生徒だけで「先行研究についてグループ学習で調べて報告する」のもいいかもしれない。
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僕自身、以前は文学作品の解釈史を示したり、たとえ生徒中心の読解をしたとしても、最後に「ちなみにこの作品には他にもこういう解釈があって〜」と「真打登場」とばかりに解説を加えることが結構あった。しかし、僕は少なくとも近年は、特に中学生の授業では「生徒中心、教師の解説ほぼなし」の授業をすることも多い(解説を資料として配布することはある)。
つまり、最近の僕は、このエントリで書いた意味での「深い読み」とは違うものを追求している面もある。次にまとまった時間がとれたら、それについて書こうと思う。(と言っても次がいつになるかはちょっとわからない….)