結局、いちばんの授業研修とは同僚の授業を見ることである。

どの学校でも、授業が本格的に始まって2週間が過ぎ、やっと一息つけたところだと思います。風越学園は今日は研修日。午前中は今年前半の「スタッフ学びの日」(この指とまれ方式のテーマごとの研修)があったり、午後には、それぞれの探求テーマをめぐって話したり、この1年のスタッフの新しい学びがスタートしたところです。そして今日の朝は、同じ56年を担当する同僚あず(栗山梓さん)と、先週見学させてもらった授業をめぐるおしゃべりもしていました。今日はこの授業見学について。

写真は今日の風越学園の森。緑が急に濃くなってきました。

授業見学はコミュニケーションのきっかけ

昨年度から、僕が定期的に同僚の授業を見学して、終わった後にそれを巡ったおしゃべりをしている事は、何度かブログにも書いてきました。コミュ障の僕にとっては、授業見学をコミュニケーションのきっかけにして、同僚と深い話が正面からできる意味が大きいのですが、それだけでなく、研修の場としても、同僚の授業を見るのはとても大きな意味があると実感しています。

有名な実践家の授業を見る価値と危険性

授業を見るといえば、僕らはつい、有名な実践家のあの先生の授業を見るとか、筑波大附属小のような有名な学校の授業を見るとかになりがちです。もちろんそういう授業見学にも良さはあります。憧れるあの先生の授業を見て、直接話をすることが自分のエネルギーになるからです。僕もナンシー・アトウェルを筆頭として、憧れの先生が数多くて、そういう先生の授業を見て、直接話をすることでたくさんのエネルギーをもらってきました。特に若い時期に、優れた先先達の授業を見たいと思う事は、自然なことでもあるのでしょう。僕だって、いまでも他校の先生の授業を見学に行きます。

でも忘れていけないのは、その先生に憧れる時点で、目が憧れに曇っているということ。見たいものだけを見に行く、憧れたいものだけを憧れに行く、その罠に既にはまっているのです。わかってはまる分にはもちろん良いのですが、そうやって憧れる先生の授業を見て話をするだけで、まるで自分が何かをしたように勘違いしてしまうことが少なくありません。まして、学校の外に出て授業を見学できる機会がそう何度もあるとは思いません。たまのカンフル剤として事業見学をしたところで、日常にはなかなか帰ってこないのです。

身近な同僚の授業を見る価値

それよりも僕がお勧めしたいのが身近にいる同僚の授業を見ること。そして記録をとって、その記録をもとに授業見学後に同僚とおしゃべりをすることです。もしかすると、身近な同僚ほど良い先生はいないのかもしれません。なぜなら、その同僚はあなたを知っている。生徒のことも知っている。学校の状況も共にしている。これほど同じ文脈を共有している同僚が、どんな願いを持ち、どのように試行錯誤しているのか。それを知る事は、間違いなくあなたの授業にプラスになる。

それだけでなく、同じ職場の同僚であれば、率直な意見交換もできるでしょう。加えて、もしも事前にやりとりをして、どんな点にフィードバックが欲しいかを聞いておけば、自分がその授業を見る視点を持つ練習にもなる。ちなみに僕は先週あずの授業を観察したときに、「もしフィードバックが欲しいポイントがあるなら教えて」と聞いたところ「環境設定や声かけによって生み出されている、また抑制されている子供たちの動きや学びと言う視点で見て欲しい」と言われました。そこで、この観点で授業を見学したことで、いつもの自分の見方とは違う見方ができて、とても良い機会になりました。

もちろん、現実には「同僚だからこそ、かえって授業を見にくい」「率直に授業を見る・見られる関係が作れてない」こともあれば、「授業を見たいと思える同僚いないんだよね」という人もいるかもしれません。いや、きっといるでしょう。あるいは、単に僕が「良い同僚にめぐまれているだけ」なのかもしれません。書いているとなんとなくそんな気もしてきました(笑)

でも、忘れてはいけないのは、お互いに敬意を持って授業を見合うこと自体が、同僚との良い関係づくりにつながること。そしてどんな授業であれ、良いところは必ず見つかるし、もっと大事なのは良い悪いを超えて授業者の信念が反映されていることです。そこさえ意識できれば、学校の外の有名な先生の授業よりも、身近にいる同僚の授業を見て、そこから学ぶ方がトータルで絶対に大きなプラスになる。皆さんも、ぜひ同僚の授業を見学してはどうでしょうか。

 

 

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