「小説を読む体験」と全く異なる「センター試験の小説を解く体験」。僕たちはどう向き合えば良いの?

もう夏休みも終わろうという時期に、遅まきながら一学期の授業から。6月末に、教育実習生さんが野矢茂樹『哲学・航海日誌』所収の「解釈かゲームか」を扱ったことに刺激されて、その続きとして急遽センター試験の小説を取り上げた。そこで改めて気になったのは、「センター試験の小説を読む」という体験が、「小説を読む」という体験といかに異なっているか、ということ。今日はそれについて書いてみたい。長文になってしまいました

僕はふだん受験指導をしない人なので、実はセンター小説を授業で真正面から取り上げるのは珍しい。今回のエントリ、日頃受験指導をされている先生方からすると、当たり前か、あるいは全く見当違いの可能性が高いかも…。

目次

共同体と個人の間の緊張関係に目を向ける「言語ゲーム」論

最初に、授業に至る経緯を書いておく(以下は関連エントリです)。

教育実習終了。自分の身体感覚や国語の授業についてなど、学ぶことの多い3週間でした。

2018.06.17

実習生さんが扱った野矢茂樹「解釈かゲームか」は、言語をどう理解するかについての評論。デイヴィッドソンの「解釈モデル」を提示しつつ、そのモデルでは言語使用で規範が強調され、言葉の使い方の正誤が判定される場面を説明できないことを指摘して、それに代わる言語モデルとしてウィトゲンシュタインの「ゲーム・モデル」を提示する評論である。

野矢によると、「ゲーム・モデル」では、コミュニケーションとは、ある入力に対して、規範に従った適切な出力を返す「言語行為」として捉えられ、この時に、ある言語を共有する共同体とそこに属する個人の間において、「規範」を「守る/押しつけられる」緊張関係が生じる。個人は、共同体からゲームの言語規則を理解してそれに則った形でコミュニケーションをとるよう「教育」(人格を統制)されるのだ。野矢は、現実の言語使用におけるこのような圧力に目を止めるためにも、デイヴィッドソンの「解釈モデル」ではなく「ゲーム・モデル」を評価する。

コミュニケーションにおいてその正誤を評価するということは、親が子に対して典型的にそうであるように、「われわれと同じ言語を用いよ」という言語統制の圧力をかけることにほかならない。そしてそれはまた、「凡人たれ」という人格への統制にもつながる。解釈モデルは、けっきょくのところ個人と共同体のこの緊張関係をただ無視するだけでしかない。だが、こうした圧力を逆手にとるためにも、われわれはそこから目をそらしてはならないのである。

センター小説とはどのような言語ゲームなのか?

実習生さんの授業を受けて、こうした「言語をめぐる共同体と個人の緊張関係」に目を向ける授業ができないかなと考えた。それでターゲットにしたのがセンター試験の小説。題材は、平成24年のセンター追試験の小説、三浦哲郎「メリー・ゴー・ラウンド」という名作短編である。

平成24年度追・再試験の問題

平成24年度追・再試験の正解

個人的な好み丸出しで言うと、この作品は本当に素晴らしい短編です。チサという女の子とその父の話なのですが、三人称の語り手が主にチサ視点で語ることで、父の思惑とチサの理解のズレが読者に分かる仕組みになってて、スリルもあるし、とても切ない。ラストシーン(センター試験収録部分の最後が小説全体の結末)も印象的で、さすが三浦哲郎としか言いようがない作品でした。
さて、僕がこの作品を題材にして、生徒と一緒に考えたかったのは、次のような問題だった。

  1. センター試験の小説問題は、どのような言語規則を持った言語ゲームなのか?
  2. ここでの「読む=解く」行為は、日常の小説を読む行為とどのように異なるのか?
  3. この言語ゲームに参加することで、私たちはどのような圧力にさらされているのか(=どのような人格になるよう教育されているのか)?
  4. 私たちは、この言語ゲームの圧力とどう向き合えばいいのか?野矢の言うように「圧力を逆手に取る」ことはできるのだろうか?

あらかじめ言っておくと、実質一晩で作った思いつきの授業ということもあって、授業としては反省点が多いものだった。何より議論を深めるには時間が足りなかった(授業時間は一学期の残り3コマだった)。典型的な「アイデアだけで練り込み不足」のリベンジ案件だったのだが、それでも僕にはとても勉強になった(僕が勉強していてはいけないわけなんですが、それはそれ…)。以下では、僕視点で面白かったことについてあげていきたい。

こんなに違う!「小説を読む」ことと「センター小説を解く」こと

まず、改めて「うーん」と唸ったのは、「小説を読む」行為と、「センター小説を解く」行為の大きな違いだ。頭ではわかってたけど、いざ生徒に意見をもらって実際に議論して書き出してみると面白かった。

小説を読む センター小説を解く
読まない自由がある 読まない自由は(事実上)ない
人生はかかっていない 人生がかかっている
時間制限がない 時間制限がある
傍線・設問文・選択肢がない 傍線・設問文・選択肢を手掛かりに読む
好きな場所や姿勢で読める 机の上に座って読む
たいていペンは持たない たいていペンを持つ
本や電子書籍の形状になっている 冊子(テスト用紙)の形状になっている
最初から読み始める たいてい小説の途中から切り取られる
途中で読むのをやめられる 途中でやめられない
感情移入する 感情移入しないようにする
辞書を使って読める 辞書は使えない
一人でも複数でも読める 一人でしか読めない
想像しながら読める 想像してはいけない
他人に自分の読みの正誤を判断されない 他人に自分の読みの正誤を判断される
自分で解釈を決められる 作問者が解釈を決める

ここには、センター試験特有ではなく「試験問題として小説を解く」内容も多く含まれているが、日常の小説の読書とセンターの小説の読解の間には本当に大きな違いがある。授業は、こうした違いを大雑把に確認した上で、本題の「センター試験の小説が持つ言語規則」に進んでいったのだけど、こうやって表にすると改めて驚くくらい。

「センター試験の小説」は、どのような言語規則を持つゲームなのか?

センター試験では「解く」ことが「読む」ことであり、「解けた」ときに「読めた」と評価される。では、どのようにすればセンター小説を「読める=解ける」のだろうか。選択式で正解を一つに定め、それを公開するという事情もあるだろうが、問題を解くときにも、センター試験の小説は独特の読み方を強いられる気がする。

以下はあくまで僕の読み方=解き方なので、大学受験を専門にされる方にはもっと良いやり方があるのかもしれない。でもセンター小説を解いて僕が感じるのは、「これは評論を読むように小説を読め、というテストだな」ということだ(同じことを言う生徒も複数いた)。

そもそも、小説の読みは読者の経験に応じてある程度の幅ができて当然なのだが、試験形式で問われるのは、「あなたの読み」ではない。「私たちの言語共同体における標準的な読み」である。そして、その「標準的な読み」は、本文の内容はもちろん、語彙の標準的理解や、私たちの言語共同体の言語常識・行為の常識も含めて構成されている。

この「標準的な読みを答える」傾向が、選択式問題ということもあってセンター試験では強い。問1(語句の意味)なんて「標準的な(辞書的な)語義」そのままだし、それ以降の設問も、標準的に許容される解釈を選ぶ。具体的には、本文に書かれている内容、長い設問文、そしてさらに長い選択肢を丁寧に読み、それぞれに書かれている内容を照合して、一致するものが正解となる。

表現について問う設問ですら、読者によって受け止め方が分かれても良い箇所は実は正答を決める根拠にならず、それ以外の本文と事実を照合して確認できる箇所で正答を導くのでは、とすら感じた。これはどうなのだろう? 僕が自分の解き方としてそう話したら、生徒の間でも賛否が分かれたのだけど。受験指導のプロフェッショナルの方、ご教示ください。

自分で解釈をせず、本文と選択肢に書かれた事実関係を丁寧に照合して、一致するものを選ぶ情報処理試験。僕にとってのセンター小説は、今のところ、そういう試験である。

「センター試験の小説」は、僕たちをどのように「教育」するのか?

こうした試験は、その実施と受験前の過去問練習を通じて、僕たちの人格をどのように統制、つまり「教育」するのだろう? 授業で話したかったのは、そういうことだった。生徒の意見は、「感情移入せず、冷静に処理する人を育てる」「真面目に本文を確認できる人を育てる」「常識を身につけた人を育てる」といったものから、「言うことをよく聞く平凡な人材」「有能な社畜」などの皮肉めいたものもまで、しかし一定の方向性を持っていた。まあ、僕もうなずける。

もちろんこうした教育的効果は試験としては珍しくないし、そこに価値を見出すこともできる。情報処理能力も、自分の解釈はいったん脇に置いて選択肢と本文を照合する真面目さも、現実の社会ではとても有用なものだから。受験国語が持つ、自分の解釈を脇に置く機能については、下記エントリの垣内さんのノートでも触れられていた。

アトウェルの生徒たちはどこで「他者の目線」を獲得するのか

2018.08.19

ただ、僕もその有用性は認めるけれど、そういう試験はわざわざ小説を素材にしないで、評論だけでやればいいのではないかとも思っている。小説を問題にするなら記述式にすべきで、読者の解釈の一定の幅を受け止める余裕がない「選択式問題」という出題形式が気になる。

誤解のないように書くと「小説を選択式問題で出題する(解答も公表する)」という前提下では、センター試験の作問者の方は優秀な方々なのだろうとは思う。でも、小説を選択式で出題するという前提自体に、やはり無理があるのでは、と感じるということだ。

僕たちはどのようにこの圧力に向き合えばいいのか?

さて、センター試験を扱ったこの授業、不完全燃焼になった最大の理由は、野矢茂樹を引用して「僕たちはどのようにこの圧力に向き合えばいいのか?」と生徒に聞いてみたところで、生徒の側には「そうと知った上で受験する」以外の選択肢が結局はないことであった。

かろうじて、「そういうものとして受けて、文科省に入って試験を変える」と答えた生徒はいたけれど、結局のところ、受験生のとセンター試験作成側(とそれを利用する大学)の間には絶対的な権力差があり、「圧力を逆手にとる」ことは難しい。僕たちにできるのは、せいぜい「これは日常の小説の読書とは違う言語規則のゲームなんだ」と自覚し、「そういうもの」と割り切ってセンター小説を解くことなのだろうか。むーん…。

せめて割り切ってもらうしかないの?

今回の授業、最初に問題を解いた時点の大福帳に、「やっぱり自分は小説は苦手です」という趣旨の回答を書いてくれた生徒がいた。この生徒が、授業を受けた後でどう感じたのかが気になっている(特に書いてくれなかったので)。

僕自身は、生徒には生涯を通じて読書する人になってほしい(読むことを、自分の人生を幸福にする手段として使える人になってほしい)、と願っている。この読書には、もちろん小説も含まれる。どのみち自分の人生を物語形式を通じて把握せざるを得ない僕たちにとって、小説を読むことには大きな効能があるとも思っている。

だから、センター試験の小説は、せめて「そういうもの」として割り切って攻略してほしい、というのが僕の願いだ。まかり間違っても、小説というジャンルそのものに苦手意識を持ってほしくない。そう言うメッセージを伝えるためにも、受験指導を厭わず、こういう授業を高校生相手にどこかでやってみる価値はあるのかもしれない、とも思った授業だった。

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