「物語の心情読み取り問題」の後日談。「共同体の解釈コード」とのつきあい方

先日書いたこちらのエントリは、ありがたいことに、多くの方に読んでいただけたようです。

「直接書かれていない心情を答えさせるのはおかしい」という意見に大真面目に答えてみました

2019.02.19
国語科教員としては特別なことを書いたつもりもなく、同業者の方には「当たり前」と受け止めた方も多かった模様。まあ、そうですよね。今日は、このエントリの後日談的なエントリ。このエントリをきっかけに気になったことが2つあったので、自分用にメモします。

「教えるべき」ではなく「教えてしまっている」

まず補足しておくと、先のエントリは、「こうあるべき」という主張を書いたのではありません。つまり、僕は「国語科教員は授業で共同体の解釈のコードを教えるべきだ」と言いたいわけではありません。僕が書いたのは「こうあるべき」という規範についての主張ではなく、「登場人物の心情を問えてしまうのは、その前提に共同体の解釈のコードがあるからであり、国語科教員がしているのは、心情を問うことを通じてそのコードを教えることに等しい」という事実認識についての主張でした。好むと好まざるとにかかわらず、「教えてしまっている」ということですね。

僕自身はそのように共同体の文化コードを授業で絶対的に扱うことについては批判的な気持ちもあります。まあ、仕事のうちだし仕方ないかな、という感じ。だからこそ、記事の後半で「相対化する」「揺さぶる」経験を教室の中に持ち込むことが大事だ、と書きました。それでも、現実は僕の思っているよりもはるかに先を行ってて、そもそも文化コード自体が思ったよりも強固ではないのかもしれない。そう思わされるコメントをいただきました。

多言語環境における物語の読み取りは?

それが、第二言語としての日本語の教育(日本語教育)に携わっている方の問いです。それは、文化的に多様な教室で、どのように「登場人物の気持ちを考える」場が生まれ得るのか、という問いでした。確かに、例えば多国籍の生徒が多く集まる教室で、こういう物語文の心情読み取りの授業をしたらどうなるのでしょう。結局は彼らに日本の文化コードを押し付ける以外の方法はないのでしょうか。

日本語教師である妻に聞いたところ、現状の日本語教育では実用的な読み書きが中心だそうです。物語文を扱うにしても、日本の大学院に進学を目指す高いレベルの学生に対して、あらすじを把握したり、日本文化を理解したりする一環として物語の読解をする程度で、いわゆる国語の授業のような心情の読み取りは、ほとんどないのではないか、とのことでした(彼女個人の知る範囲ですので、例えば日本文学を研究するレベルだとあるのかもしれませんが…)。

ですが、今は外国籍の児童・生徒が一定数の割合を占める日本の小中学校も多いはず。そういう場では日本の学習指導要領に則っているので、文化的なバックグラウンドが多様な中で、物語文の読み取りの授業が行われていることになります。では、どうやって?

最近読んだ本だと、文化的に多様な教室の国語の授業が次の本で紹介されていたのですが、残念ながら、物語文の読み取りについては書かれていませんでした。

物語を解釈する際のコードが多様な生徒が同じ物語を読めば、当然反応の幅も大きく違ってくるはず。実際、どういう授業が展開されているんでしょうか。そして、どういう授業のあり方が望ましいのでしょうか。機会があったらがあったらぜひ一度見学したいところです。

詩の読みとりを行うことの意味

もう一つ興味深かったこと。今の時期、たまたま中学生の授業で詩を扱っているのですが、詩の読み取りは、テクストの情報量が少ないだけに、各々のもつ経験や解釈コードの差異が読み取りに大きな影響を与えます。そして、先週、石垣りんの詩を扱った時に、僕からすると「え?わざわざそこをそう読むの?」となる反応が、あるクラスで一定数ありました。

その日の授業は、結局事前の予定を全て変更して、「この詩を読むときのオーソドックスな(いわば、共同体の解釈コードに則った)解釈」と、「彼らの解釈」で、一体何の前提が違うのかを、僕自身が探っていくような時間になったのです。

例えば、僕にとっては「同じ詩の中で語り手が変わることは、構成などで明示されている場合を除いて滅多にない」という認識なのですが、彼らは、意外とそこに抵抗感がない(詩の連と連の間で、語り手が変わるという読みをする)。すると、僕としては「語り手がころころ変化すると読者が混乱するから、普通はそういうことはあまりないんだけどなあ」と思い、そう言いつつも、一方で「でもその前提を取っ払った時に、君たちの読みはどこまで成り立つのか」を探っていくことになります。すると、彼らの前提で見た時に、彼らは彼らなりに、詩の表現をとてもよく読んでいるわけですね。読んでいないから変な解釈をするのではなく、よく読んでいるけど、前提が僕と違うので、僕からすると変な解釈になる。

この日の授業ではあまりうまくさばけた感じがないのですが、「お互いが何を解釈の前提としているのか」「その前提の違いが、どの表現についてのどういう読みの違いをもたらすのか」を言葉にして取り出していけば、それはそれで国語の力をきちんと鍛える授業になる。むしろ、解釈の際に暗黙のコードに頼るところの多い詩は、そういう授業をする上でとても良い材料になりうる、という発見でした。

多文化環境での物語の読み取りの授業と、お互いのコードの違いを明らかにしていく詩の読み取りの授業。この2点について、いつか何か発見ができるように、頭の片隅に置いておきたいと思います。

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