30以上の小学校で教えた経験を持ち、中学校国語免許も持つ須貝誠さんという方が、「直接書かれていない登場人物の心情はわからないので、それを答えさせるのはおかしい」という主張をされています。今日はこの主張について、大真面目に、長く、書いてみたいと思います。
なぜそうするかというと、こういう主張って「解釈は自由なはずなのに教員に否定された」経験からの不満や、「一義的に意味の定まらない小説よりも、まずは明確な根拠を持って議論できる文章を読み取る論理的読解力が大事!」的な捉え方とも結びつきやすいかな、と思ったからです。安易にそうならないよう、現場の一教員がどう考えているのかを記しておくことに意味がある、と思いました。
さて、問題の主張は、以下のリンク先にあります。
目次
「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ
この筆者の主張
この筆者の主張は、この記事の後半で次のようにまとめられていました(以下は、引用ではなく、あすこまによる要約です)。
物語文の学習でよく聞かれる登場人物の心情は、文章中に心情を表す直接的な表現(嬉しい、悲しいetc)がない限り、「分からない」が正解である。なぜなら、同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だからである。従って、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切である。
これを分解すると、次のような「②である。従って①である。従って③である」という論証構造になります。
- 登場人物の心情は、文章中に心情を表す直接的な表現(嬉しい、悲しいetc)がない限り、「分からない」が正しい
- なぜなら同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だから
- 従って、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切である
まず書いておくと、僕はこの意見に全く賛成していません。僕の考えでは、仮に議論の前提である②を認めたとしても、そこから「②である、従って①である」も導けませんし、おそらく「①である、従って③である」も直ちには導けません。ここでは、後半の論証は僕の本論ではないので、「②である、従って①である」に限って批判をしたいと思います。
解釈は自由でも、解釈の幅は決まる
確かに「同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々」でしょう。筆者の言うとおり、同じコップの水を見ても「もう半分しかない」と思う人もいれば、「まだ半分もある」と思う人もいるでしょう。
しかし、「様々である」ということと「それが予測不可能なほど多様である」ことは全く別です。例えば、僕たちは誰に対しても「鈍器で殴られたら痛いだろう」とか「親族を亡くしたばかりのあの人は悲しい思いをしているだろう」と予測します。もちろん、予測が外れることもあるし、「悲しい思い」の内実も細かくは千差万別です。ですが、傾向として大まかな予測は当たることが圧倒的に多く、その予測の「幅」もある程度は決められます。
実際問題として、僕たちは言葉で表現されない相手の心情を推測していますし、それができなければ相手の出方が予測できず、コミュニケーションが成り立ちません(須貝さんも、さすがにそれは認めてくれると思うのですが…)。
僕たちは、同じ文化を共有する共同体のメンバーである
さて、その解釈の幅はなぜ決まるのでしょうか。それは、僕たちが同じ文化を共有している集団のメンバーだからです。僕たちは、「こういう時には普通はこういう心情になるだろう」「こんな表情をしているときはこんな気持ちだろう」という一定の「コード」(解釈のルール)を共有しています。いわば、同じ解釈共同体の一員なのです。厳密には一人一人は違うという立場を認めても、大まかな「幅」「傾向性」「妥当な解釈の範囲」は、共同体の中に明らかに存在します。
だって、ニコニコ笑っている人を見たら、「嬉しい」「楽しい」という直接的な言明がなくても、「嬉しいんだろうな、楽しんだろうな」と思いますよね? この場合、「ニコニコ笑った顔」を「嬉しい」「楽しい」と解釈するのは、「妥当な解釈の範囲」だけど、「悲しい」は「間違った解釈」ですよね。
また、僕の妻が、むすっとした顔で一言もしゃべらずに、夕食の食器をガチャンと音を立てて机に置いたとする。一言もしゃべらないことがすでに雄弁な感情表現なのに、僕が言葉にされるまで彼女の感情がまるでわからないのだとしたら、そのこと自体が新たな怒りの原因になるでしょう(幾多の実績に基づく迫真の具体例です…)。
こういう予測が成立するのは、僕たちが、感情とその表出に関するコードを共有しているからです。同じ文化を持っているから、直接言葉にしなくてもわかる。平たくいうと、そういうことですね(このこと自体がけしからんという人もいるかもしれませんが、僕は今良し悪しではなく、実際そうである、という話をしています)。
解釈の幅は、共同体のコードが決める
こういう解釈の「幅」「妥当な範囲」を決めるのは、その解釈共同体が共有してきたコードの蓄積です。「私たちの共同体では、こういう場合はこのように解釈するのが普通だ」という情報が蓄積されて、「普通」が形成されます。僕たちに「普通」がわかるのは、様々な経験を通じて、そのコードを知識として持っているからです。
このコードは長い時間をかけて、例えば古典の蓄積を通じても形成されます。例えば、川本皓嗣氏が『日本詩歌の伝統』で論じるように、「秋の夕暮れ」に物悲しさを感じる感情も、古典文学の伝統の上に成り立ってきました。この感情は、英語の文学的伝統では必ずしも自明ではありません。
物語文にも読み取りのコードが存在する
解釈共同体の文化の所産である物語文にも、このコードが様々な形で蓄積されていて、「こういう場合にはこういう風に心情を解釈するのが普通」というケースがたくさんあります。たとえ直接的に「嬉しい」「悲しい」と書かれていなくても、僕たちにはその登場人物の心情の「妥当な解釈」を定めることができます。行動の描写、表情の描写、情景の描写、会話、間(例えば言い澱みなど)、語り手の評価、全体のストーリー展開における位置付け…そこに埋め込まれたコードに従って「妥当な範囲の解釈」を読み取ること。それが、物語文の授業で心情を読むという行為です。
例えば、物語の中で、家族と深刻な喧嘩をして登場人物が家を飛び出した時、重く垂れ込めた暗い雲から雨がポツポツ降り始めたとする。だとしたら、その情景は「その人物の暗い心情の反映」や「この先の過酷な状況の暗示」のように読み取ることが「普通」です。これが、僕たちがコードを知っている、ということです。
この時に、「いや、人間の心情が天候を左右するのは科学的におかしい」「書かれていないことはわからない、他の可能性も排除できない」と抵抗したところで、仕方ありません。ここで問われているのは、「あなたがどう思うか」ではなく、「私たちの属する解釈共同体では、この場面ではどのようなコードに従って解釈するのが妥当か」だからです。問われているのは、あくまで「私たちの解釈共同体の妥当解」なのです。だから、そのコードを全く知らないと、答えることができません。答えは「本文の中」ではなく「本文の外」にあります。
だから、直接書かれていない人物の心情も読み取れる
以上で、仮に「同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だ」(②である)を認めたとしても、「登場人物の心情は、文章中に心情を表す直接的な表現(嬉しい、悲しいetc)がない限り、「分からない」が正しい」(①である)が導けない理由としては、十分ではないかと思います。
私たちは、厳密には一人一人異なる「様々な思い」を持ちつつも、でも同一の文化を共有する共同体のメンバーである以上、コミュニケーションに必要な解釈のコードを持っています。そして、物語文における心情の読み解きとは、その解釈のコードについての問いなのです。だから、直接書かれていなくても、「私たちの解釈共同体では、このように解釈する」ことを、問うことも、答えることも、できるのです。
だから、物語文の問いは、究極のところ「知識問題」です。例えば、物語文の問題をとくのが得意な子は、日常の生活体験や多様な物語体験(本、映画、漫画、ゲーム…)から多くの解釈コードをすでに身につけているので、それを今読んでいる物語にも当てはめて解釈ができるのでしょうね。
教室とは、解釈共同体のコードを教える場である
さて、ここからは、須貝氏の文章からは少し離れてみましょう(実はここからが僕にとっての本題だったりしますが…)。
こういう観点で物語文の授業を見てみると、教室とは「解釈共同体のコードとその適切な運用を教える場である」という側面を持ちます。まだ幼い子どもたちは、僕たちの解釈共同体のコードに必ずしも通じていません。そこで、教室では、心情描写や情景描写を読み取るという体裁を取りながら、教師は「私たちの解釈共同体のコードはこうですよ」「共同体の一員になるには、このコードを理解しないといけませんよ」ということを教えている。
ここで問われているのは、「あなたの解釈」ではなく「私たちの共同体における妥当な解釈」です。それを問いつつ、大人の代表である教員は、子どもを共同体の一員へと「馴致」していきます。われながら意地悪い言い方をしている自覚はありますが、学校の持つ「社会化」機能は、物語文の読み取りの授業ではこういう形であらわれます。
物語文の読み取りの社会的機能を明らかにする必要性
この時、問題が生じるのは、こうした教室での物語文読解の持つ権力的な側面を隠したまま(あるいは無自覚なまま)、教員が「どんな解釈でもいいよ」「多様な解釈があるよ」とだけ言ってしまう場合です。しかも、本当に「的外れ」な解釈が出てきた時には、「本当にそうかな?誰々君はどう思う?」とやんわりと否定したり、スルーしたりする場合。つまり、「多様な解釈」と言っても本当は「妥当な範囲」があるのに、そのことが明らかにされない場合ですね。これでは、混乱する学習者や、あるいは不満・不信感を持つ学習者が出るでしょう。こういう不満や不信が、もしかして元記事の須貝氏の「直接的に書かれていない場合をのぞいて、心情を問うべきではない」という極論を生み出してしまうのかもしれません。
ですから、僕は、教員は時には(いつも、でなくてもいいでしょう)「教室内で物語を解釈すること」自体をメタに捉える説明をしたほうがいいと思っています。僕は中学生の授業でも「なぜ解釈は自由だという人がいる一方で、文章の読み取りが試験になるんだろうね」という問いかけから、学校教育や試験の場で「妥当な解釈」とされるものは一体何なのか、という話をしています。
特に物語文の試験については「なぜ自分の読みが間違っているのか、自分には確かにそれが正しいと読めるのに」と思う生徒もいます。ですから、「あれは、正しい解釈を聞いているんじゃない。僕たちの解釈共同体で妥当とされる解釈を聞いている。こういう風に読み取るコードを身につければ自分たちの解釈共同体の仲間に入れてあげるよという、メンバーシップ認定試験なんだ」という言い方をすることもあります。
どういう言い方をするかはさておき、「教室という場で物語文が扱われる意味」については、メタに話しても良いのではないか、というのが自分の考えです。
解釈共同体を揺さぶる経験の意味
また、ここまでは便宜上、解釈共同体が「大人だけが持ち得る、固定的なもの」という想定で書いてきましたが、実際にはそんなことはありませんよね。共同体の解釈のコードは、時代とともに形成され、変化する動的なものです。また、解釈共同体は唯一のものではありません。大人だって言語や文化が異なれば微妙に解釈のコードは変わってきますし、子供は子供で大人とは別に解釈の枠組みを持っているだろうことも、想像されます。
例えば、昔なら「伏線」としてさりげなく配置されていたものが、今ではそれを踏まえた「フラグ」として、あからさまに配置されることで新たな効果を持つものもあります。また、読書好きの子どもは、ストーリーや比喩や、大人の考える様々な読み取りのコードがわからなくても、物語を楽しめてしまいます。こんな現象は、解釈共同体やそのコードが、単一のものでも、固定的なものでもないことを教えてくれます。
すでに書いた通り、教室における物語文の授業は、どうしても「馴致」(解釈共同体のコードの学習)の側面を持ってしまいます。国語がコミュニケーションの授業である以上、それは避けようがないことだと思います。ですが、それだけでは息苦しい。皆さんはどうですか? 少なくとも僕は息苦しいです。それに、解釈共同体を固定的に捉えすぎている。
だから、教室では解釈共同体のコードを教える経験と同時に、そのコードや解釈共同体を相対化し、揺さぶる経験も必要なのかもしれません。それは、一つの物語を異なる観点で多様に読んでみせるのでもいい、僕たちのよく使う解釈のコードを逆手に取ったパロディ作品を読むのでもいい、定番のコードを裏切ることで新鮮な表現を創造する詩作品を読んだり書いたりするのでもいい。同じ作品が複数の解釈共同体でどのように享受されてきたのかを比較文学の視点から学ぶのもいい。教室と生徒の実態に応じてやり方は色々でしょうが、解釈共同体を揺さぶる経験って、けっこう大事なのかもしれない。最終的にはそんなことを考えさせられる、須貝氏の文章でした。
小学校教員です。
「解釈共同体のコード」ということばを興味深く感じました。
これまで,「直接は心情が書かれていなくても,情景が描かれていれば分かる」ことを子どもたちには教えてきました。例えば『ごんぎつね』であれば,「兵十の影を踏み踏み行きました」から,この時のごんの気持ちは読み取れる。そうしたことを積み重ねて,物語をより楽しめる子になってほしいと願っています。
「こうだったらいいのに」という願望(これが「多様な解釈」のなかに紛れ込んでくる,というのが私の感覚です)を物語に投影しがちなのが子どもだと考えています。その願望は大切にしつつ,これからも解釈共同体のコードを教えていこうと思います。…コードや解釈共同体を揺さぶる授業,どうつくっていくか,難しいけれど大切ですね。心に留めていきます。
楽しい記事,ありがとうございました。
私は中高生を相手にしていますが、小学生だと彼らの読み方と大人の読み方の差もより大きくなるでしょうし、それを尊重しながら解釈のコードも与えていく、というのは大変ですよね。私もいざその立場になったらできる気がしません…。参考になるようでしたら嬉しいです。
日本語を教える授業で、最もベタな日本語の物語文の解釈コードを教える必要性が私には思いつきません。日本語のロジカルな読み書きだけ教えてくれたら良いです。
また、日本には一つの共通した文化があるわけではないし、それがあるという前提で日本語の物語文のベタな解釈コードの獲得を要求するというのも、ずいぶんと古い発想のような気がしますね。カルスタやポスコロやサバルタンにも功罪ありますが、それらの成果を全く取り入れないというのは知的にもちょっと情けないように感じます。
僕は「国語の授業がどうあるべきか」の話ではなく、「国語の授業では実際にそうなっている(仮に教師が意識的に教えなくてもそうなっている)」ことを書いていて、また、この記事は、「最もベタな」とおっしゃる解釈コードが実際にわからないという元記事への応答であるのです…。
中学校教員です。最近よく読ませていただいています。
「解釈共同体のコードを教えている」という今回の記事を読んで、私が数年来モヤモヤしていたことの答えが分かった気がしました。
私は、登場人物の心情把握について、他の教員と意見が異なることがあります。私とその方のコードが微妙に違うということなのでしょうが。私自身が身につけるべきコードを身につけておらず、生徒にも指導できていないとしたら、それは大変なことですよね。自分のコードを磨いていかなければと思いました。
また、このズレはテスト作成時に非常に困るのですが、あすこまさんはこのような微妙なズレをどうされているか、もしよかったら教えてください。
ありがとうございます。僕がここで書いたのは、例で挙げたような基本的なコードの読み取り(笑顔だったら嬉しいとか楽しいとかだよね)のレベルの話なので、微妙に違うというのは、妥当な解釈の幅の中でも色々と生じると思います。僕自身、自分の読みはありますが、もちろん、他の国語科の方と解釈が違っていて、どちらも共同体の解釈のコードでは容認可能、ということはよくあると思いますよ。テストについては、僕は自分の受け持ちは全て自分で採点できるので、他の同僚と擦り合わせる必要がないのです…。でも、容認可能な幅は決めても、一つの正解に決めることはありませんし、他の同僚と一緒にテストを作ってもそうすると思います。
あすこま先生の解釈共同体のお話大変参考になりました。ありがとうございます。そこでもう少し勉強したいなと思ったのですが先生のお話はスタンリー・フィッシュ『このクラスにテクストはありますか』等を参考にされたものなのでしょうか。不勉強なものであまり詳しくは知らないのですがもし参考文献がありましたら教えていただけると幸いです。
コメントありがとうございます。『このクラスにテクストはありますか』は読んでおりますが、今内容を再現できないくらい忘却の彼方です、すみません…。かなり以前に文学理論の本はそこそこ読んでいたのですが(最近は興味を失っています)、どれに直接強く影響されたのかはわかりません。ただ、おそらくそれらの影響を受け、従ってそんなに突飛な考え方でもないだろうと思います。文学理論関係の本は『文学とは何か』『このクラスにテクストはありますか』『物語のディスクール』『批評理論入門』など色々とありますが、今、ご推薦できる本をあげるとしたら、土方洋一『物語のレッスン』あたりが読みやすくて最初の一冊に良いのではないかと思います。