この春の5月のことになるけれど、都立両国高校の沖奈保子先生の「羅生門」の授業を見学させていただいた。長らくメモ書きの状態のままだったのだけど、ウェブで検索できたほうが自分が便利なので、沖先生の了承をえて、遅ればせながらこちらにアップします。
目次
ジグソー学習による「羅生門」読解
教材の芥川龍之介「羅生門」は高等学校国語科1年の定番教材。僕が見学させてもらったのは6時間目。生徒たちは「老婆チーム」「下人チーム」「下人の心情チーム」「場面設定チーム」に分かれていて、それぞれのグループごとに問いを決めており、前の時間からすでに話しあいを始めていた。これだけでピンとくる方はお察しの通り、個々の専門家グループで問いについて考えて、その後お互いの考えを持ち寄るジグソー学習である。
グループワークに慣れている生徒たち
まず驚いたのは、沖先生の指示が出たら生徒さんたちがすぐに動き出したこと。両国高校というと山本先生(今は武蔵高校へ異動)の「教えない授業」で知られる学校だからか、よほどみんなアクティブなグループワークに慣れているのかなあ…。
あとで聞いた所、もともと「両国高校はグループワークの多い学校」ということを知って入学する生徒が少なくないのに加え、4月には国語の授業の中でチームづくりのプログラムも組まれているらしい。普通は極端にグループワークが苦手で拒否感のある子がいても良さそうなんだけど、このクラスでは見当たらない。すでに鍛えられている感じがする。
沖先生の丁寧なノート指導に驚く!
各所で担当箇所ごとに専門家グループの議論がはじまる中、老婆チームに張り付いて話を聞いてみた。ここは、「なぜ老婆は動物にたとえられたのか?」「老婆はどうなったのか?」などの問いについて話し合うグループ。主導権を握っている女子生徒たち中心に会話が弾む。手元には個人の考えが書かれたノートがあり、生徒たちはこれを見ながら話し合う。彼らの聞きながら、「会話は活発だけど、もう少し教科書を開いて本文そのものに戻ってもいいんじゃないかな?」と思っていたところ、寡黙だった一人の男子生徒が教科書を示しながら口を開く場面もあった。いい働きしてるねえ!
ちなみに沖先生は黒板に各専門グループの問いを板書したあとは、机間巡視をするでもなく、前方の窓のそばでどっしりかまえている。あとで聞いたら、ここは信じて待つしかない場面とおっしゃっていた。
とはいえ、先生は「見守るだけ」かというと、全くそんなことはない。グループワークを重ねる以外に、内容面にもけっこう手を入れている。例えば、この前の時間に提出させたノート全員分にひと言ずつコメントを書き、考え直した方が良い班には班全体に「手紙」を書いてヒントを与え、再考を促しているのだ。内容面の指導には、実はかなり手を入れている。
「すごいぞ芥川!だよ」
約10分後、沖先生の合図で専門家グループを解体して机を再編し、それぞれの専門家同士が集まるジグソーグループになった。ここでも生徒の移動はスムース。今度はそれぞれのグループでの議論の内容を持ち寄り、解説しあう時間である。
ここはなかなか面白かった。ある男子生徒の説明に出て来るエゴイズムという言葉。この小説が「境目」をめぐる物語であるという視点(昼と夜の境目、生きるか死ぬかの境目、都の内と外)。この後の下人はどうするのかという話…高校の国語教師の方ならご存知かとは思うが、羅生門をめぐる定番の論点が生徒の口から出てくるのだ。いやあ、よく出てくるよな、と感心した。沖先生のノート指導の賜物である。
「なぜ舞台が羅生門なのか?」という問いをめぐって羅生門の持つ境界的意味を理解したある生徒からは「すごいぞ芥川!だよ」という言葉も出てくるほど。ここが今回の授業見学のハイライトだった。
その後、「本文の根拠にもとづいて主題を書く」という、ノート提出の課題が出て終了。主題についての考察が10行以上で、作業を通して気づいたことが5行以上。相当なボリュームである。これにまた、沖先生が目を通して、また丁寧にコメントをつけていくのだろう。
「先生が教える」のと何が違う?
さてこの授業、表面上は生徒のグループワークなのだけど、書いたとおり、沖先生の「水面下でのティーチング」が相当に大きな効果を与えている。通常の一斉授業なら「先生が話す」ことを、「先生がノートにヒントという形で提示し、その指導を通じて気づいた生徒が他の生徒に話す」という構成になっているのだ。
ではこれは「表面上の形は違うけど、結局先生が教えるのと同じこと」なのだろうか?そうではない、と思う。
4月にチームづくりの授業をやっていたのと同じく、この5月の段階では「グループワークで学べる集団づくり」をしている最中なのだと思う。文学的教材を読み解く知識を、ノート指導や「手紙」を通じて各グループに教え、それをその生徒たちが別のグループに話すことを通じて、クラス全体に広めてもらう。それは、先生がクラス全員に語るよりも、きっと生徒にとっても楽しいやり方のはずだ。特に、周囲に話した本人はアウトプットもすれば他の生徒に関心してもらえるので、きっと定着率が高まるはず。
こうやってクラスのメンバーが、文学作品を読み解くための知識を身につける、まさにそのプロセスの真っ最中なのだと思った。生徒はもしかして気づいていないかもしれないが、今のところは沖先生の手のひらの上。でも、おそらく授業が進み、生徒が読み解くための「知識=武器」やグループでの経験を手に入れていけば、沖先生の介入の仕方も変わっていくに違いない。
『学び合い』集団を育てるプロセスを見せてもらった
沖先生というと『学び合い』の先生で、僕もてっきり全てが『学び合い』の授業なのかと思って見学した。でも、僕が見学したのは、もっと構成的なジグソー法だった。これも、5月という時期が大きな理由なのだ。ジグソー学習を通じて、グループで学ぶスキルが身についたと判断したタイミングで、もっと非構成的な『学び合い』に以降するはずだ。沖先生ご自身も、「今回はジグソーだけどいずれ『学び合い』にする」ということをおっしゃっていた。
僕が見学したのは5月下旬という、GWがあけて一学期の授業が波に乗ってきた時期。一年の中ではまだまだ序盤戦である。この時期、沖先生は「いずれ、『学び合い』で文学作品を読み解く集団をつくるための、文学的知識とグループワークの経験を仕込んでいる」時期なのだろう。だから、ノートを通じてしっかりティーチングをする。それをアウトプットして広めてもらう。
長期的な視点で「学び合う集団」をつくるために、どのタイミングで何をするのか。学級づくりにも関わってきそうな「授業における集団づくり」の一端を見させてもらったのは、とてもよかった。僕は、ここまで「学ぶ集団づくり」の見通しを持って授業をつくることはできていない。この視点を具体的な実例で学べたことが、今回の授業見学の大きな収穫。こうなってくると二学期や三学期にどうなっているのかも見たくなるなあ。どうもありがとうございました!
こんな授業なら楽しそうだなあと思いました。
ただ、ひとつ気になったのは、「なぜ~のか」という問いがオンパレードで出ているんでしょうか?(と、自分も「なぜ」を訊ねているので心ぐるしいんですが。。)あ、書物のタイトルまで『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか」ですね。(笑)それは「生徒がより考えるからだと思います」。。う~ん、そうすると、「なぜ」は本文を読むだけでははっきりわからないようなところまで考えさせるのに向いた問いだからかな?自問自答。