もしかして自分、飽きている!?  自分の「停滞期」と「書くこと」の関係を認める。

久しぶりの投稿になった。12月はめまいの発作に襲われたり、とにかく寝ないと体力が回復しなかったりで、そんな体調面の問題もあって、読書も書くこともほとんどできず、低空飛行の月になってしまった。「本日和」が終わってふっと気が抜けたというのもあるかな。ようやく気持ちは持ち返してきているんだけど、この11月くらいから自分の中で言語化しつつあったことを、ここで一度形にして残しておこうと思う。それは、自分が「飽きているのではないか」というシンプルな思いだ。体調の悪さもあって、気分が乗らない、時間が割けない。でも、それだけでなく、自分はいま低迷期とまでは言わないまでも、停滞期にいるのでは、という気がしている。今日と次回のエントリでは、自分がどんなふうに停滞期にいるのか、そこからどうやったら抜け出せるのかを考えてみたい。典型的な、「読者は未来の自分です」エントリになる。[ad#ad_inside]

写真は10月に地元の閼伽流山という低山に登ったときのもの。なんとなく閉塞感のある写真をえらびたくなって(笑)

この停滞期、出版からはじまっていた?

さて、「自分、もしかして飽きてるのかな」と思った時に思い当たるきっかけが、意外かもしれないけど、今年の4月に『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』を出版したことだ。

この本は本当に自分の心をこめて書いた本で、それまでの自分の「書くこと」との付き合いとか、書くことについて勉強してきたこと、出会った言葉とか、そういうものをぜんぶひっくるめて書いた本。そして、風越学園での56年の「作家の時間」をベースに書いているので、風越学園での4年間の集大成的な本でもある。そんな大事な本だから未読の方にはぜひ読んで欲しいのだけど、だからこそというか、書いて何かを手放した感じになってしまった。

書くという行為は面白いもので、書くことで「手放す」ことにもなりうるし「とらわれる」ことにもなりうる。今思うと、自分の場合、書いたことで、別にそんな必要は全くないのに「ああ、もうこれでいいな」という手放す気持ちが生まれてしまったのだと思う。加えて、ありがたいことにいくつかこの本に関連して動画やラジオに出演したり、この本がきっかけで研修や講演をさせてもらって、一つ一つはとても楽しい経験なのだけど、総体としては自分自身で「おなかいっぱい」な感じになってしまった。どうしても何度も同じことを話す、みたいになっちゃうしね。

そんなわけで、実はこの本の出版で「一つ区切りがついた」気に勝手になってしまった、言い換えれば「飽きてしまった」ところから、僕の停滞期は始まっていたのだのだと思う。

変えてみようとしたけれど…元に戻ったり…

今思えば、今年の春から僕が授業スタイルを変えようとしていたも、ひとことで言うと「飽きてきた」からなのかな、という気もする。5月にカンファランスとその記録をやめてみたのも、当時の自分はいろんな考えを書いているけど(下記エントリ参照)、今の自分から見ると、なるほどと思いつつも、今やっていることに飽きている姿も読み取れてしまう(まあ、こういうのも解釈の産物なんですけどね)。

「しばらくカンファランスとその記録をやめてみる」宣言

2024.05.01

自分はつい「把握したがる」ところがあり、それが生徒を追い詰めてしまう危険があるので、カンファランスやその記録をやめてみるのは悪いチャレンジではなかった。でも、残念ながら優れたエピソード記憶を持つ先生たちと比べて、そういう才能のない僕にとっては、カンファランスをやめることは子どもの姿が何も見えなくなることと直結するし、その記録を残さないことは「何もなかったこと」に直結してしまうのだ。カンファランスをして、その記録を書き留め、その蓄積からこどものストーリーを編んでいく。それが僕のやり方らしい。そうでないと、ただの書かせっぱなし、読ませっぱなしの「作家の時間」「読書家の時間」になってしまう。

カンファランスをしないことの物足りなさ、退屈さに耐えきれず、僕は秋にカンファランスを再開することになる。「記録をとることできちっとしたくなる」という課題意識があるので前よりは意識的に「ゆるく」カンファランスをするのだが、油断するとついまた「把握したがる」癖が角を出す。今もそのバランスには苦慮しているが、今思うと、このカンファランスをめぐる試行錯誤も「うまくいってない感」「停滞してる感」につながってしまったかもなあ。

やっぱり書かないとダメだった。カンファランスとその記録、再開しました。

2024.09.29

書くことが停滞の一因である?

書くことは「手放す」ことにも「とらわれる」ことにもなりうる、とさきほど書いた。『君の物語が君らしく』を書いた自分は、それで満足して勝手にそこから解放されたくなってしまったが、その一方で、書くことで勝手に囚われてしまっていることもあるなあと感じる。それは「自分は教師に向いていないな」(少なくとも小学校の教師に向いてないな)という思いだ。

教師という仕事は対人支援職であるから、根本的には人間が好きで、子どもが好きで、子供が好きなことやモノに興味を持って一緒に面白がれる人のほうがいい。それは、子どもの年齢が幼ければ幼いほどそうだ。多くの子は(いや、実は大人もそうなのだが)、理屈で正しいこととかやるといいことではなく、自分が好きな「仲間」の話を聞くものだからである。風越で、小学校56年生を相手に4年目を迎えて、心から思うことだ。子どもの世界に入って、一緒に面白がって、そこから始める人がこの学校にはたくさんいる。子どもに興味を持ってその世界に入れる人が、子どもの「仲間」になれて、話を聞いてもらえる。理屈ではわかってはいても、それは自分には難しい。それが自分の人生でやりたいことではないからだ。

きっと、多くの学校の良い先生たちが「教育」に軸足があって、その中で「国語」のような教科だったり特別活動だったりといった分野にその都度ピボットするのに対して、自分の興味関心の軸足は「読むこと」「書くこと」にあって、就職のタイミングでたまたまもう一つの足を「教育部門」に置いたに過ぎないんだろう。出版とか編集とか、そんな人生もありえただろう。そういう半端者の教師を「専門性がある」という言葉で飾ることはできても、実際にはそんなきれいなものではないのだ。

いまの自分は、そういう長所短所もふくめた自分らしさを活かして自分なりの教師像を作っていくしかないと一方では思い、試行錯誤の実践を重ねているけれど、それと並行して「本当は自分は教育の人じゃないんだろうな」という苦い自覚が、風越学園での日々をブログで振り返ることで、明確に言語化され、強化されてしまった状態にある。たとえば軽井沢ブックフェスティバルに参加したときのこの記事には、「教育」ではなく、「読むこと」「書くこと」が自分の中核だという思いがあふれているしね。

やっぱり本が好き!軽井沢ブックフェスティバル2023、参加してきました。

2023.09.25

閉じて書くメディア、ブログの危険性

ブログは個人に閉じたメディアである。いや、世間ではブログを「発信」として使っている人もいるだろうけど、少なくとも僕はこのブログを「発信」ではなく自分の記録として書いていて、ひとりで自問自答しながらこのブログを書いている。とすると、それは自己の信念や思い込みを強化する「囚われ」のツールにもなりやすい。そんなことは理屈ではとっくにわかっていることなのだが、実際に見事に囚われてしまっているのだから、人生とはままならぬものだ。

とまあ、いまの自分は、自分の「停滞」をこんなふうに眺めている。自分の停滞期を「書くこと」との関連で分析してる時点でバイアスが出まくっている気もするけど、正直ないまの実感かなあ。こうやって自分の「停滞」を書くことを通して分析する。すると、それに納得してしまい、停滞から抜け出せなくなる。書くことにはそんな危険もつきまとう。その危険とはうまくつきあっていきたい。そうならないように、そこから抜け出すヒントを、次のエントリではやはり書くことを通して考えてみよう。

追記)次のエントリはこちら

世界の見え方を変えるか、ゲームのルールを変える。実践の「飽き」を乗り越える2つの方法。

2024.12.29
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