色々と思うところあって、しばらく「作家の時間」「読書家の時間」のカンファランスの記録をとることをやめてみようと思う。どうしてそうするのか。先日リンクを貼ったVoicyでもちょっと話しているのだけど、今回はそれについて整理する意味で書く。書かないと結局カンファランス(とその記録)をやっちゃいそうなので、その予防の意味も含めて。
目次
この実践の柱であるカンファランス
「カンファランス・アプローチ」の別名の通り、カンファランス(教師と生徒の1対1の対話)は、ライティング・ワークショップ(作家の時間)やリーディング・ワークショップ(読書家の時間)の柱である。アトウェルももちろん綿密なカンファランスをしてきて、僕はアトウェルの真髄はカンファランスにある、と書いてきた。
また、僕自身も、筑駒勤務時代からスプレッドシートに生徒の「カンファランスの記録」をとり続けてきた。赤坂中勤務時代のりんちゃん(甲斐利恵子先生)に「仕事を増やしていますね」と言われつつも、りんちゃんのようなエピソード記憶力がない自分にとっては、これは生徒の状態を知り、自分のアクションを記録するための欠かせないツール。この実践の柱だった。
ねらい1:授業に「不確定要素」を増やしてみること
ではなぜ、僕にとっては非常に大事なカンファランスの記録を「いったん止めよう」と考えているのだろう。理由は2つある。
第一の理由は、最近ずっと考えている「今のままのあなたでいいよ」と「今のままではいけないよ」をどう両立させるかという問題(下記エントリ参照)。
この問いを解決するには、今の路線で授業をブラッシュアップするのでは難しいのではないか。だから自分の授業の何かを大きく変えたい、というのが一番大きな理由だ。そして変えるときには「新しく何かを始める」と「これまでやってきた何かを止める」の2つがあるが、今回は後者を選んだ。
もともと、僕の授業は(自分で言うのもなんだが)丁寧に準備されていて、意図が授業空間・時間に張り巡らされている。僕はいつも7時には学校についていて、最大8時半まで国語の授業準備をする。その中には、この先の文脈を見通して今日何をすべきかという判断や、今日、何をどんな表現で語るかのリハーサルもある。
この丁寧さには良し悪しがあって、下記エントリで書いたように、「あすこま先生がなさっていること、1つ1つが子どもたちの学習環境となって、それが機能していることに大変感銘を受けました」と言ってくれる見学者の方もいる一方で、丁寧であるゆえに僕の授業は、「乗れる」子と「乗れない」子がわかれてしまうのではないか、とも感じている。だから自分の授業に「自分の意図が届かない場」「自分がコントロールできない場」をいかに意図的につくりだすか、というのが僕の課題でもあった。
今回、1対1のカンファランスの記録をとることを止めることで、僕が子どもたちを綿密には把握できないようにし、自分のコントロールがきかない状態をあえてつくる。それによって、自分の授業にどんな変化が現れるのかをみてみたいのだ。
ねらい2:自分の強みをより活かす授業デザインにすること
もう一つの狙いは、これも最近強く感じるようになった「自分の強みをより活かす授業デザイン」への転換をはかること。この思いは今年の新年エントリに書いてある。
僕の教師としての強みは、子ども理解や生徒への愛情でもなくて、「読み書きが好きなこと」に尽きる(これまでカンファランスの記録を丁寧にとってきたのも、子ども理解が弱いからこその側面がある)。もしかして僕は、「教育」の人ではないのかもしれない。「読み書き」が中核にあれば、関わる対象が「子ども」でなくても本来OKなのだ。きっと、編集者などでも楽しく仕事ができる人だと思う。
そして、僕は学ぶことが好きだ。筑駒時代の何が楽しかったって、優秀な生徒のおかげで自分が懸命に(コンテンツについて)勉強できたことだった。一方で風越では、生徒の年齢や学力レベルもあって、筑駒時代同様に「自分が一生懸命に学べる授業」を展開するのはなかなか難しい事情がある。
ただ「読み書きが好き」「学ぶのが好き」という自分の強みを一番活かせるのは、やはり「自分も年長の読み手・書き手としてその場にいられる」授業なんだと思う。もちろん、教えるのが仕事である以上、100パーセントそうするのは難しい。でも、カンファランスとその記録をいったん手放すことで、自分が一人の書き手・読み手として教室にいる時間を少しでも増やせないか。そのほうが、より「自分らしい」授業になるのではないか。そう考えている。
手放してみて、さて、どうなりますか…。
というわけで、カンファランスを(少なくとも毎回全員に)すること、そしてその記録をとることを、昨日からはじまった新しいユニット「真似からはじめて、」ではいったんやめてみる。そして、毎回、少しでもいいから、授業中に自分が教室で書くこと、読むこと、その姿を見せることに時間を割いてみる。
実際にやったときに、僕はどう感じて何をするのだろう。何しろ僕は「カンファランス魔」(これはたしか石川晋さんの表現だった)なので、もしかして自分の強みをみすみす捨ててしまうことになるのかもしれない。そして、そういう不安とも戦わないといけないだろう。でも、少なくとも、今回のユニットの間は、ためしてみよう。そして、そこで何が生じるのかを、今年一緒に僕の授業に入ってくれる同僚のざっきーとともに、考えてみたい。