「はじめに自分ありき」。自分にあった授業を模索したい、2024年のはじまり。

1月6日、長野から東京に出かけて「ホーム」の勉強会に参加してきた。去年の年明け最初のエントリもこの勉強会について書いたのだけど、東京を離れて長野県に移住してからも、僕にとっては大事な勉強会だ。なかなか東京にいけない僕はこの勉強会の「オンライン部会」運営メンバーなのだけど、やはり、一年に1回くらいはこうやって対面で会えると、それだけで嬉しい。というわけで、この年末年始は原稿を書く以外はゆったり過ごしたのだけど、いよいよ「国語の授業モード」に切り替えていくよん。まずは2023年のふりかえりから。

サムネイル画像は初日の出…ではなく(笑)、去年の8月に薬師岳にテント泊で行ったときにみた朝日。新年のエントリで使いたくて、使うの我慢してたもの。薬師岳は標高2926メートルの、北アルプス・立山連峰を代表する名峰ですぞ。

目次

長野に来て5年….旧知の方からのフィードバック。

2023年は、コロナ禍が(社会的には)ひと段落したこともあって、筑駒時代の自分を知る方が授業見学に来てくださる機会が何度かあった。こういう方たちの感想は、風越学園に来てからの変化の現れでもあるので、とてもありがたい。まずは「楽しく元気にやってる」という声が多くて、これは本当にそうだなと思う。同じ学年団メンバーをはじめ、今年も素晴らしくパワフルな同僚たちに恵まれている。だから大変なことも多いけど、日々を楽しくやっていけてる実感がある。「授業や話し方が本当に変わった」という感想は、以前とは子どもの年齢も学力も全然違うのだから変わって当然でもあるけど、苦労しながらもそれだけ積み上げてきたものがあるのかな、と思えて嬉しい。

逆にドキッとした感想もある。「前は全然注意しない先生だったのに、めちゃくちゃ注意するようになった」という感想がそれ。これは、今年の受け持ちの子たちに、もともと「ちゃんと」志向の強い真面目な僕が心を乱されて、まだまだ順応できてないってことだと思う。僕にとっては風越は毎年のようにストレッチゾーンで、今年も修行だな、と思ってる。まだまだ悟りを開けてないね。

「自分をよく知る」5年間でもあった

この5年間は、「自分についてよく知ることができた」5年間でもある。僕にとって母校でもある筑駒は、僕自身を形成してくれたその空気があまりに自然で、何も違和感を感じさせないコンフォートゾーンそのもの。そこから離れてやってきた風越は、特に当初は正直なところ違和感だらけ。でも、そこで試行錯誤する中で、自分の考えが変わったところもあれば、変わらないところもあった。変わりたいところもあれば、変わらずに大事にしたいところもあった。「自分は何者か」「自分は何をしたいのか」「自分はなぜここにいるのか」をこれほどまで考えた5年間はなかった。そして、そうやって自分の好き・嫌い・得意・弱みについて考え、ブログにも書き続けてきたことが、今の自分を作っている感じがある。そのことだけでも十分冒険を楽しんでいる感がある。うん、風越に来たことを全く後悔していないし、その選択をした自分は正しかったと思ってる。

はじめに自分ありき。自分にあった授業をつくろう。

僕は、別に子どもに深い愛情や関心を持って接するタイプではない。というか、ぶっちゃけて言えば人間にそんなに興味がない。コロナ禍の時、もともとインドア派の僕が急に山に登るようになったのは、「多くの子どもと長時間一緒にいる」こと自体が単純にストレスだったからである。間違っても、小学校の担任とかをやっちゃいけないタイプだと思う。

小さい頃から読み書きが好きで、たくさん本を読み、家でも趣味で文章を書いて育ってきた。大学生の頃は研究者になりたかったけど、それがかなわず、本を読むことや書くことを仕事に生かしたくて、教員になった。そんな経歴の僕は、今でも「子どもよりは国語を教えるほうが好き。国語を教えるよりは、自分が学ぶほうが好き」な人である。

そういう僕には、強みもあれば、同時に教師としてはめちゃくちゃ大きな限界もある。大きな強みは、読み書きの好きな僕がライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップをすると、「授業が自分を裏切らない」ということ。なにしろ、僕は小さい頃から自分の趣味で毎晩お話を書いてきたし、たくさんの本を読んできた。これほど僕にぴったりの授業スタイルはない。もちろん授業の良し悪しはそれとは別の要素があるにせよ、僕ほどの「天職」感覚でこの実践に取り組んでいる教員は、日本でもそうそういないはずだ。自分の人生と実践が重なっている。僕がライティング・ワークショップを選んだというよりも、僕がライティング・ワークショップに選ばれた。口はばったい言い方にはなるが、そのくらいの強いつながりをこの実践には感じている。

逆に、僕にとって難しいのが、「国語以外の場面で、授業や子どもに興味を持つこと」である。これは、残念ながら無理だった(すでに過去形…)。「国語以外の授業に興味をもつ」にしても「子どもの興味に興味を持つ」にしても、言われてできるものではない。まあ仕事だから給料分はやってるつもりなのだけど、根が面白がれないのは変わらない。熱量が国語より圧倒的に下がる。

あと、今年の僕にとって大きな学びの場が、同僚のKAIさん(甲斐崎博史さん)とあっきー(木村彰宏さん)によるPA連続講座「Adventure in the Classroom」なのだけど、そこでも「自分という人間は、本当に他人や他人の感情に興味がないんだな」と実感することが多かった。周囲の人間よりも課題(コンテンツ)に意識が自然に向いてしまうのだ。そして、人間に向けてはアンテナが向かない。これはもう、僕という人間の生まれ持った特性なんだと思う。そんな傾向を持つ自分が、無理に自分の感情を押し殺して「できないこと」をできるようにしようとしても仕方がない。

だから「はじめに自分ありき」。あえて「はじめに子どもありき」ではなく、こう言おうと思う。偏りのある自分を受け入れて、それもふまえて自分なりの「より良い」授業像を追求したほうが、どう考えても幸せである。僕だけでなく、子どもも周囲もだ。

これは、決して興味のないことや苦手なことはやらないというわけではない(まあ、やらずにすむなら喜んでやらないのだけど、そうは問屋が卸さない)。例えば、「国語以外の授業に興味をもてない」のも悪いことばかりかというとそうでもないことに気づいた。コンテンツにこだわりや思い入れがないからこそ子どもに寛容になれたり、テーマプロジェクトの設計を子どもたちとする方に楽しみを見出そうとしたり、中身に興味がないからこその良さも見えてきた。そういうふうに、自分の弱さも強さに転化できる道を模索しよう、ということである。

自分が「学び手」でいられる授業をつくりたい!

今思うと、2023年は、これまでよりも自覚的に自分という人間の傾向や限界を考え、「教師である自分が自分らしくいられる授業づくり」を考えてきた年だった。教室の窓に詩を書く試みをはじめとして、そのうちのいくつかは、うまくはまったものもあった。ただ同時に、多様化する子どもたちの実態にあわせて、いろいろな手をうってきたのも2023年だった。漢字テストを小2から受けられてるようにしたのをはじめ、今年は去年までと比べて格段に手数が増えた。正直、手を広げ過ぎている感じもあるのだが、無理に縮小しようとも思っていない。おそらく、数年するうちには、自然に削ぎ落とされて、シンプルになっているだろうからだ。今は手を広げつつ、それを待っている感じ。

「自然に」と書いたが、2024年以降、自覚的に推し進めたい流れもある。それは、自分が「学び手」として教室にいられる時間を増やしていきたいということ。子どもよりも教科内容に興味があり、教えるよりも自分が学びたい僕という人間がもっとも生きるのは、自分が学び手としてその場にいる場面ではないか、と思うからである(実際、教えることを通じて自分もめちゃくちゃ教材研究をして学べていた筑駒時代、授業がとても楽しかった)。

具体的にどうするのかはまだ決まっていない。でも、これまでよりも積極的に教室に作家・ライター・詩人の方などを教室に招いていきたい。幸い、軽井沢にはそのポテンシャルがある。そして、自分も一参加者としてその方の授業やワークショップに参加したい。そうすることで、僕自身も「学びたい」欲が満たされてますます授業が楽しくなるし、子どもたちだって僕の権力から解放されて別の評価基準に触れることで、これまでと違った動きが生まれるかもしれない。自分を「教え手」から「学び手」の立場に置くことで、授業が大きく変わっていく可能性を感じている。これは、これから数年かけてもいいからチャレンジしてみたいなあ。

読み手・書き手としては….「メタファー」を扱えるように!

実はもう一つ、自分の読み書きのスタイルについて、チャレンジしたいこともある。読むにせよ書くにせよ、僕はもともと論理実証モードの強い人間である。つい「本当にそうか?」「根拠は?」などと文章や書き手としての自分に問いかけながら、批判的に考えてしまう癖があるのだ。このモードには強みももちろんあって、論理的整合性をチェックしながら、言いたいことを正確に伝えたり、読み取ったりすることができる。地図を見ながら道を進んでいくスタイルに近いのかもしれない。

しかし、このスタイルには欠点もある。例えば書く時にも自分で自分にチェックしながら進んでいくので、自己検閲がはじまって、それが飛躍的な思考をもたらしにくくもなる。読み手としても、相手の文章をチェックしながら読んでいくので、その書き手が意図しなかったこともふくめて豊かに読み取ったり、書き手が使ったレトリックや比喩に最大限に乗っかって好意的に解釈したりするのが苦手なのだ。つまり、「誤読」が苦手なのである。

文章には、そういう伝達性だけでなく、メタファーなどがもたらすイメージの喚起力によって、書き手の意図以上のものを読者に想像させる力がある。書き手としてはそういうイメージの喚起力を扱って、読み手の解釈を通してそこに何か新しい価値を生めるようになりたいし、読み手としても、論理的整合性などは無視して、そのメタファーに乗っかって自分をどこかに連れて行ってもらう、くらいの読みをできるようになりたいな、と思うのだ。そうすることで、書き手としても読み手としても、当初思いもよらなかった地点に降り立ち、予想もしなかった景色を見られる可能性もある。

だから、この「論理実証モード」と「メタファーモード」のどちらの価値も認めて、読み手としても書き手としても、話し手としても聞き手としても、その両方の姿勢に開かれた人間になりたい。これもきっと、この一年でどうこうできる話じゃない。けど、目指したいな、と思ってる。

実は、6日の勉強会で気づいたことなのだけど、この「論理実証モード」と「メタファーモード」という視点は、論理的文章か文学的文章かというだけでなく、他の分野に広く適用可能なようだ。例えば、いま、ライティングについてのある本のゲラ原稿を読ませていただいているのだが、その本でのフィードバックの方法に、「ジャッジをするのではなく、その文章を読んで、自分が受け取った印象をただ伝える」という方法がある。これなんかは、「論理的な整合性をチェックして添削する」ような、論理実証モードのフィードバックとはまるで違うものだ。また、NVCの「聴く」でも、相手の話を聞いた側が「アドバイス」や「分析」を自分から伝えたりはしない。ただ、自分のなかにうかんだイメージだけを、感情のリストから選んで話し手に伝え、それをどう解釈するかは話し手に委ねる。これもまた、「論理実証モード」ではなく、「メタファーモード」で聴くという行為なのだろう。

おまけ)これまでの新年エントリ

というわけで、年はじめにふさわしく、2023年のふりかえりと、今年以降頑張りたいことを書いてみた。最後に、これも毎年恒例の「新年エントリ」のふりかえり。このブログも今年の9月で開設10年になり、新年エントリの数も、今回で10個め。ここまでくると文字通りライフログなので、一年に一回、過去の新年エントリを読み直すだけで、個人的にはなかなか面白いのです。

2023年

ホームの勉強会から始まった2023年。今年もよろしくお願いします。

2023.01.05

2022年

趣味を楽しんで、作文教育を深めて...を目標にしたい2022年、今年もよろしくお願いします。

2022.01.04

2021年

新年あけましておめでとうございます。2021年にやってみたいこと。

2021.01.05

2020年(この年は19年末の振り返りのみ)

軽やかに変われない自分に向き合って(年末のふりかえり)

2019.12.31

2019年

今年は「手放して待つ」一年に? 2019年、あけましておめでとうございます。

2019.01.01

2018年

あけましておめでとうございます!2017年に読んで面白かった本のまとめ

2018.01.02

2017年

歴史ボードゲームにハマる年末年始。今年もよろしくお願いします。

2017.01.03

2016年

今年もよろしくお願いします(昨年前半の記事振り返り)

2016.01.02

2015年

今年は、書くことをもっと身近に

2015.01.01

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