某所から作文の研修講師にお招きいただいて、明日から福井県に行ってきます。今日ギリギリまで研修資料を作っているダメなあすこまです…。ライティング・ワークショップのお話をするときに必ず聞かれる「で、成績をどうつけるのよ?」という質問に先回りしてお答えする文章を書いたので、現時点の考えを保存する意味で、ここにも載せておきます。(けっこう批判の対象になるかなあ…という気もするのだけど、まあ仕方ない)
目次
ライティング・ワークショップにおける成績評価
ライティング・ワークショップについて説明した時に、と必ず聞かれるのが「成績評価はどうするのか?」ということです。この質問に先回りしてお答えしまします。
まず「形成的評価」という意味なら、ライティング・ワークショップでは「カンファランス」を通じていつも評価をしているのですが、成績評価となると、ライティング・ワークショップはなかなかに辛い立場に追い込まれます。というのも、「書き手を育てる」ことを目指すライティング・ワークショップは、本質的に「作品の点数化」になじまない面があるからです。実際に、アメリカを代表するライティング・ワークショップの実践者であるナンシー・アトウェルは、毎学期の成績を、その学期ごとの生徒の取り組みについて文章で評価するにとどめており、「個々の作品について成績をつけたことがない」とまで述べています。
個々の作品に得点をつけないことのメリット
ナンシー・アトウェルは、ライティング・ワークショップを実践するために自分の学校まで作ってしまった人なので、やや特殊な事情の持ち主ではあります。でも、彼女のやり方は、実はとても理に適っています。というのも、点数やランクによる成績評価と序列は、作文教育においてマイナスになる側面も強いからです。
第一に、若くて経験の浅い書き手は、「評価されること」にとても臆病です。「書けない」「書くことがない」生徒の多くは、その実、本当に「書くことがない」のではなくて、「教室という場で他者に自分の書いたものを評価されることに臆病である」ことが少なくありません。点数化は、こうした生徒の「恐れ」を助長します。
また、点数化することで、生徒は当然保守的になります。どうすれば良い点数を取れるのかを考え、教師の指示から逸脱しないようになります。これには当然良い面もあるのですが、一方で、書き手としての「冒険」「挑戦」をしなくなることにもつながります。新しいジャンルに挑戦したり、何か実験的なことをしたりせず、無難に書くようになるのです。
さらに、点数化すると、提出した作文が成績とともに返却された時、生徒はその得点にしか目が行かなくなります。せっかく教師が丁寧にコメントをしたとしても、そのコメントは「自分の成績が何点であった理由」としてしか読まれなくなります。
点数化の悪影響は教師にも及びます。点数をつける・序列化するということは、どうしても、生徒たちの作品に「差」をつけるという意識につながります。すると、上位の生徒は別にして、多くの生徒たちへのコメントが「満点を取れなかった理由」という風に、「欠陥の指摘」という色彩を強く帯びてくるのです。いきおい、成績下位の生徒へのコメントにはネガティブな言葉ばかりが並ぶでしょう。これは、生徒を伸ばすという観点から言えば、効果的なフィードバックのあり方とは到底言えません。
つまり、ナンシー・アトウェルの、「生徒の取り組みを、点数をつけず、文章のみで評価する」というスタンスは、以上のような悪影響を回避しつつ生徒の成長を支援できる点で、優れた成績評価の仕組みだと言える。僕はそう考えています。
日本の教室ではどうすれば…
しかしながら、日本の標準的な学校で、点数による成績を出さないのは現実的ではありません。100点中何点、または5段階でいくつというような成績の出し方から無縁でいられる学校はほとんどないでしょう。では、僕たちは成績をどうつければ良いのでしょうか。
僕の知る限り、中学校以上でライティング・ワークショップを実践する人の話を総合すると、皆さんとても「甘い」評価をつけていました。例えば、提出したら何点、何文字以上書いたら何点というように、作文の質に関係ない比較的低いハードルを設けて、それをクリアできれば一律に得点を与えています。
僕はどうしているかというと、事前に定めた基準や(創作の場合は)自分の印象で何段階かに分けて評価をしていますが、それも「甘い」評価です。特に創作の場合は全員が80点以上で、得点差がほとんどつきません(もちろん、得点だけでなく、文章によるフィードバックは、すべての生徒にしています)。
こうした得点のつけ方に共通するのは、「得点をつける行為を無効化しようとしていること」です。つまり、制度上得点はつけないといけないのだけれど、ほぼ横並びにすることで、得点化=序列化のもたらす弊害を無効化する戦略だと言えるでしょう。
「そんな甘い評価で生徒がちゃんと書くのか?」と遠慮がちに質問されたことがあります。書きます。書くことに意味を見出せば、生徒は書くのです。
個々の作品への点数は、大きな問題ではない?
もちろん、こうした成績のつけ方には「客観性」や「作文の質の差を十分に成績に反映していない」などの欠点があることも、十分に承知しています。この成績のつけ方は、全く完璧ではありません。いい加減です。
ですから、もし事前のゴール提示や客観的な説明責任を重視するのであれば、ルーブリックを作れば良いと思います。僕は現時点でルーブリックによる作品評価に懐疑的ですが(とは言え、ルーブリック化しやすい部分は使ったこともあります)、外部に開かれた、生徒や保護者が納得しやすい評価にはなるでしょう。
僕自身も、かつては「きちんとした」成績評価をしようと、生徒の取り組み状況を成績に加えることや、自己評価を成績に加えることも含めて検討し、いくつかは実践しました。けれど、実力不足もあるのか、どれも納得のいくものになりませんでした。
完成した作品をどんな風に点数化するかは、作文教育における「評価」の上で、そう大きな問題ではない。それよりも、やるべきことがある。暴論のようですが、僕はそう判断して、現状の「適当な」成績評価のつけ方に至っています。成績評価のつけ方を厳密にしようとして疲弊するよりも、個々の学校の事情に合わせて「適当に」評価をして、実践を継続すべきと考えたのです。
書き手としての変化を「線」で見たいのだけど…
「評価」というものが生徒を伸ばすためにあるのだとしたら、作文の評価で成績よりももっと大切なのは、個々の作品を「点」として見るのではなく、生徒の書き手としての成長を「線」として見ることです。同じ作品でも、文脈が異なればその意味合いが異なります。失敗に見える作品も、書き手の生徒が勇気を出してチャレンジした結果かもしれない。作品の評価は、理想的には、常にそのような「書き手の持つ文脈」の中でなされる必要があります。
40人規模の学級では無理に思えるその評価をどう実践するか、それこそが、作文の評価をめぐる、最も困難で本質的な課題です。こちらについても、まだ全くできている気がしません。あちらもこちらも、難しいことばかりです。
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「『点』として見るのではなく、生徒の書き手としての成長を『線』としてみる」というお考えに賛同します。
その上で、だいたいどのように評価されているのかはたぶん生徒さんは知りたいとも思っているとも思うので、よくありますが、AとかA+とかの段階(面?)ぐらい幅を持たせた評価もそれほど悪くないと思います。その際に、すこしその根拠が示されていたら、いいと思います。小学校のときは〇の大きさとか何十の〇かで何となく察してました。(笑)
評価はその程度でも十分に書き手にとって指針となると思います。評価しにくいものは基本的にはムリして評価しない方がいいと思います。書いたものをファイルに綴じて眺めるだけでも、自分の書いてきたものを客観的に線上に並べて振り返られると思います。
それとちょっと関係ないかもしれませんが、小学校のときに、今まで書いていたように書けなくなっていった(具体的には短文の集まりみたいになり、抽象的な言葉も混じるようになった)時期がありました。自分でも下手になったなあと思ったし、先生の評価も低かったですが、今になって思うとそれは大人の文章に一歩脱皮していく過程だったようにも思います。文章を書くことの成長も決して直線的でもないように思います。
書くことの成長が単線的ではないという話は研究でも指摘されていますが、森井さんの場合もそうだったのですね。論文だとrecursive(行ったり来たり)という表現が使われているようです。
グレードについては、AやBといったグレードをコメントにつけると、グレードにばかり目がいってコメントがあまり読まれなくなることも実感としても感じるし、そういう研究結果もあるので、そこは考えどころかなあ…という感じです。僕は、グレードを知らせるにしても、コメントを渡す時期とグレードを知らせる時期をずらすのがいいのかなと思っています。
なるほど。私もそれがいいと思います。
グレードは点数よりもマシかなと思うだけで(受け取る側の精神安定剤以上の)たいした意味はないと思います。
その分、たぶんコメントの質が問われるでしょうね。いろんなジャンルのものがあると、書き方も変える必要があり、得手不得手も見えてくると思います。ただ、あまり型にはめても面白くないなと思います。型がわかればその型からの離脱というか、冒険もすすめていいと思います。いろんな文体なども試すといいなあと個人的には思います。そうすると読むときにも筋だけではなくて文体などにも気を配り始めるからです。書くことの成長は単線的ではなく、(ちがった方向へも向かっていくので)面的だとも思います。例えば、擬古文で書くとかも面白くて古文(あるいは漢文)の勉強が好きになった記憶もあります。