昨日は朝9時半から夕方4時まで、福井県の某所で作文教育について研修講師をしていました。丸一日だったので疲れたけど、頑張りました。(ついでにいうと、今日は自分が受ける研修でした…)
目次
ライティング・ワークショップの研修
研修のタイトルをうっかり「『よい』作文教育とは何か?」などというとても大仰なものにしてしまって後悔したんだけど(これは題の届け時期に苫野一徳さんの『どのような教育が「よい」教育か』を読んでいたから。わかりやすすぎるぞ…)、内容は、高校生の国語の先生方を対象にしたライティング・ワークショップの研修。自分が小論文添削指導をしていた頃から「「よい」作文教育」についての考えがどう変わってきたかを語りつつ、プロセスの中で「書き手」に教えるライティング・ワークショップの紹介をして、研究による裏付けもあわせて紹介し、あとはがっつり体験もしていただく、という流れ。
研修としての出来がどうだったのかは、けっこう不安もあります。ぼくの実力不足もあるし、もともとライティング・ワークショップには先日書いた「評価」の問題をはじめ色々な困難もあるしね…。
教師も一緒に書くと良いことばかり!
でも、ライティング・ワークショップであろうがなかろうが、おそらく誰にとってもプラスになるはずの助言は、「生徒に書かせるのと同じ課題を教師も書くと、良いことばかり」ということ。これだけはメッセージとして研修参加者の方に伝わると良いなあ。
僕のブログでは度々出る話題だけど、教師が書くことは、パッと思いつくだけでこんなメリットがある。
- 自分の課題内容の長所や短所がわかる
- 時間制限の適切さがわかる
- 書くことの難しさを実感できる
- 自分自身の書いたものや書くプロセスを授業の素材にできる
- 「ジャッジ」する立場から離れることができる
下記エントリで書いたように、実は多くの国語の教師は「自分ではそんなに文章を書かないし、自信もないのに、周りからは文章がうまいと見なされ、他人の文章を評価しないといけない」というビミョーな立場の存在だ。調査はイギリスのものだけど、日本でも似たようなものだと思う。僕自身も、当事者としてよくわかる。
このことが、ますます教師を「書くこと」から遠ざけている面もあると思うけど、この精神的なハードルを乗り越えて自分で書くことさえすれば、上記で書いた色々なメリットを実感できる。教師が書くことって大事。
アトウェルが語る、デモンストレーションの効果
研修帰りの新幹線。ナンシー・アトウェルのIn the Middleを読み直していたら、こんな一節が目に入ってきた。彼女は、教師が実際に書く姿を見せることについて、何度も何度も書いている。
教師が書き手としてどのように考えて、どのように書いているのかを生徒にはっきりと見せる形で教えると、書き手としての考え方や行動の仕方が理解できるようになります。これより効果的な方法は思いつきません。大人である教師の取り組み中の姿を観察することで、書くときに何ができるのかという世界が生徒の中に広がります。これはとても価値あることです。そのためには、教師が大作家でなくてもよいのです。生徒にはっきり見せて教え、そこで教えたことを土台にしていくために、教師は生徒よりほんの少しだけよい書き手であればよいのです。(p107)
教師にとって大切なのは、「模範文」を提示することではない。例えば、生徒には30分で書いてもらうものを1時間書けて「模範文例」を作っても、それは生徒の役に立たない。そうではなくて、生徒と同じ条件で試行錯誤する大人の姿を見せることが大事なのだ。見せるべきなのは、「結果」ではなくて「プロセス」である。
生徒たちにとって大切なのは、生徒たちよりも、ほんの少しだけであっても先輩の書き手が、紙を目の前にして考え、その考えを変えたり、どんなふうにすれば良い文になるのかに思いを巡らしたり、自分らしい文や内容を作り出そうとしたりしている、その実際の姿を見ることなのです。(p108)
私が論文や本を執筆していることは事実ですが、教室で私が書き手として尊敬されているとしたら、それは、自分の作品を授業で使い続けているおかげでしょう。…私が心をむけて書くことに奮闘する姿を見ることで初めて、生徒たちは、大人がどのように書くことに価値を見出し、紙の上で考えるのか、という視点を得ることができるのです。(p114)
うん、その通り、と思う。教師も一緒に書くことで、書くことのプロセスを、一人の大人の「こころを向けて書くことに奮闘する姿」を示しながら教えられるのだ。そのためには、「ほんの少しだけ」先輩であればよい。
読んでいて楽しい作品たち
ところで、昨日の研修では、参加者の皆さんの書く文章がとてもバラエティに富んでいて上手だったことに驚かされた。論説文、小説、伊勢物語風の歌物語、配偶者への手紙、絵の詳細な分析、などなど。創作系って、小論文よりも自己開示を迫られる感じがあって厳しいと思うのに、果敢に挑戦なさっている方も多かった。そのおかげで、「書く時間」の最中のカンファランスがとても楽しかった。僕自身も参加者の方と一緒に書いて、読んで助言をもらったりして、ちょっとしたエッセイを書き上げることができました。協力してくださった皆さま、ありがとう。皆さんに支えていただいての研修でした!
今日(8/18)はたまたま英語教育の研修に参加したんですが、そこでスピーチの授業の話を聴きました。「日本の生徒はスピーチの原稿をどう書いていいのか習っていないようだ」という講師先生の話に多くの英語教師は「さもありなん」という反応でした。私も国語の時間に教えてもらった記憶がありません。
現在の国語の授業でもスピーチの原稿の書き方などはやらないんでしょうか?(そして実際のスピーチの指導も?)ちょっと心配です。
会場に国語の教師がひとりぐらいいて、「そんな馬鹿なことはありません。今は平成、それも29年ですよ」と言って欲しい気がしました。
スピーチは教科書には載っているので、やっている先生はいらっしゃると思います。ただ、僕自身はブックトークはさせますけど、パブリック・スピーチの原稿の書き方はやりません…(中学生は弁論大会というのがあり、そこである程度は学びますが…)。
良いことを教わりました。その、講師が書くことのプロセスは、どの段階で見せるのですか? カンファランスの途中で「私は今、こんなふうに書いています」みたいな感じですか?
一番多いのは、ミニレッスンで自分の作品や書いている場面を題材に使うのだと思います。
すごく共感しました。2、3年前くらいから、句会や文集に自分も作品を投稿することにしたのですが、何よりも多くの子どもたちは、教師が作品を書くと拙い作品でも喜んでくれます(小学校)。あとぼく自身も子どもたちのフィードバックをもらえて嬉しいです。
僕もてるさんと同じくらいの時期からだったように記憶しています。やっぱり、やってみると全然違いますね。
(その研修には紛れ込んでいたので)手元に詳しい資料がないんですが、英語の教師自身にも(教師対象の)スピーチコンテストがあるのでぜひ参加してほしいと呼びかけていました。おそらくどう指導するか以前に、教師自身にしっかりとした「体験」や「経験」がないことが、有効な指導に結びついていないのだろうという直観がおありなのだろうと思います。どの段階かはよくわかりませんが、たぶんあすこまさんのような感じだと思います。私も以前自分の書いたものを教材にしたことがありますが、(普段はほぼない)実感をこめて語ることができました。