イベントの研修で「書き手」の側を経験する

午前中、採点の合間に時間を確保して、この夏に行われる「高校生のための哲学サマーキャンプ」のチューター研修に参加させてもらった。別に倫理の教師でもない僕がなんで参加させてもらったかというと、プログラムの中に、ある文章の一節から哲学的な問いを作り出すセッションやチューターと一対一で対話しながら文章を書くセッションがあるから。もっぱらライティング支援の文脈でこのイベントに興味を持って、ここ数年参加させていただいているというわけ。

なにぶんチューター向けの研究なので内容を詳しくここに書くことは控えるけれど、学校で書くことを教えている者として、刺激になるような問いや話題がいくつもあった。

例えば、「学校で小論文を書くことと哲学的なエッセイを書くことの違いは何か?」という問いから「哲学的な思考は書くことでしか選べないと思う」という発言まで、ふだんの現場を離れて「書くこと」について考えるきっかけを一杯もらった感じだ。

加えて、チューターの皆さんに混じって、自分で文章のアイデアを考えてチュータリングしてもらう経験をできたことも貴重だった。以前に次のエントリで書いたように、僕たちのように関心のある教員を除けば、学校の教師が「書き手」になる機会は意外に多くない。まして、アイデア出しから始まって書く途中をサポートしてもらう体験は、けっこう貴重である。

「書き手」としての教師に注目してみると...

2015.04.14

チュータリングをしてもらいながら、「なるほど、最初にキーワードをあげて分類するやり方もなかなか効果的だな」「時間制限を気にすると、どうしてもまとまりやすい結論を出そうとしちゃうな」など、書き手の側で色々な感情を経験できた。また、制限時間のあと、チューター役の人から「あすこまさんはとにかく具体的に物事を考えていく人」とフィードバックをもらえた点も新鮮。

こんな風に、ちょっと教室とは立場を変えながら「書くこと」「考えること」に関わる機会は、とても貴重だ。僕が好きなアトウェルの言葉は「Writing is thinking and rethinking on paper」。書くことは考えること、という思いが、哲学専攻でもない僕とこの哲学イベントをつなげている。この夏も、イベント当日が楽しみだ。

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