今夜は、あるICT系の勉強会に参加してきた。そして、そこで出会った写真教育に携わっている方のお話がとても刺激的だった。言語とは異なる表現領域である写真が表現教育に果たせる役割について、とても自覚的に考えていらっしゃったのだ。たとえば、言語でうまく表現できない子でも、一度写真をとって対象を静止させるることで、文章を書くきっかけにできること。また、写真の善し悪しは、仮に言語化的できなくても見れば当人には感得できるものなので、言語化が苦手な子でも良い写真をとれるようになること。さらに、良い写真をとることの金額的技術的コストが下がった今、人々は文章を書く以外の表現手段を手に入れたのだということもおっしゃっていた。
その方の話には、僕が考えた(というより本を読んで学んだ)ことと似ている点もあったので、自分の整理のために、ICTが「書くこと」に及ぼす影響について改めてまとめてみたい。このテーマで書くのは初めてではないので、関連エントリもリンクしておく。
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まず、「メディアが○○を変える」という話(例:ICTが教育を変える)には怪しい点も多々あることは認めよう。それでも、メディアやツールの変化が「書くこと」自体に影響を与えることは大いにありうる話だ。
例えば、以前紹介した石川巧『「いい文章」ってなんだ?』では、筆とペンが鉛筆とザラ紙に変わることで書くことが変化したことが指摘されているし、滑川道夫『日本作文綴方教育史 大正編』にも、「大正期綴方教育を、外部的に推進させる条件になったものに、筆記用具の革新があった」(p665)と、同様の指摘がされている。さらに、アメリカの作文教育史上でも、プロセス・アプローチの普及が教育現場におけるPCの普及と軌を一にしていたことが指摘されている。
(参考記事)
そして、21世紀を迎えた今、デジタル化によって作品の複製が容易になり、または写真・動画・ウェブなどの様々なメディアを活用するための金額的・技術的・時間的コストも劇的に下がりつつある。それが「書くこと」自体の意味づけを変えつつある。このへんの話は、Developing Writersといういい参考文献があって、以前にこちらのエントリでもまとめた。▼
これまでは(たぶん今でも)、学校では「鉛筆で書くこと」が当たり前だった。「鉛筆で」という部分が当たり前なだけでなく、何かを表現するといったらまず「文章を書くこと」なのも当たり前だった。それは、動画や写真で表現するコストがかかりすぎて、事実上「文章を書くこと」以外の手段に乏しかったからでもある。
しかし、今そのコストは下がりつつある。文章を書くだけでなく、写真をとったり、動画を作ったりすることも、(普及はまだまだだけど)できる時代になってきた。「書くこと」は、それらの他の表現領域との関わりの中で、また新たな意味づけを与えられる。他の表現とコラボして書くことも、今後は当たり前に国語の授業の中で行われるだろう。そして、「(写真や動画でも表現できるのに)なぜわざわざ書くのか」という問いを生徒が持ちながら、それぞれの表現領域の強みや弱みを意識しながら、自覚的に文章を書き、それを他の表現メディアと組み合わせるだろう。僕の想像する作文教育の未来には、そういう風景がある。