今学期のライティング・ワークショップが始まってます。先週はアドラー心理学の岩井俊憲さんと心理カウンセラーの中村さん、別の日には石川晋さんと佐内信之さんが見学に来て下さいました。そんな先週の授業の振り返りメモ。
目次
授業に参加しない生徒、どうする?
中村さんと岩井さんの日については、岩井さんがご自身のブログでも感想を書いてくださっている。授業後に、お二人の立場から、授業に参加しない(僕との関係がこじれてしまっている?)生徒への対応について助言をもらった。アドラー心理学では、問題行動を起こす人のことを「勇気をくじかれている」状態と捉え、それを四つのステージ(注目、権力闘争、復讐、無気力の)に分けて考えるんだそう(詳しくは下記の本などをごらんください)。
その上で、彼には見守っていることだけを伝えることにして、彼が信頼している他の生徒に働きかけたほうが良いのではないかとのこと。カウンセラーの中村さんも同じような見解で、基本的にやる気の削がれている生徒については、無理にやらせようとしても嫌がっているのだから、気にしていることを伝えつつ、待つのが良いという立場のようだ。この辺は、「でも、現実的に時間制限がある中でいつまでも待っている=放置していていいのか」という疑問も出て、カウンセラーと教師の立場の違いみたいなものも出てて面白かった。
また、隅っこの狭い場所で作業している生徒についても話題に。確かに、お二人の言うとおり、彼らは狭いところで一人でやりたいのだから、わざわざそこに行って話しかけるのは良くないな。授業時間の前後の時間帯などを使って話しかけていこう。
石川さん、3度目の来校
翌日の授業は、石川晋さんと佐内信之さんが来訪。石川さんは、リーディング・ワークショップの授業を2回見てもらって(下記エントリ参照)、今回で3回目になる。
リーディングとライティングの違い
石川さんによると、僕のライティング・ワークショップでのカンファランスは、リーディング・ワークショップよりもずっと介入的なのだそう。リーディングの時と違って、ライティングでは書き手の感覚を揺さぶるような質問が多いし、提案も反問もする。両方見学をして、石川さんは、「リーディング・ワークショップはライティングの準備の時間のような位置づけなのかなと思った」とのこと。
図書館でやることの意味
リーディング・ワークショップ以上に、図書館でやることの意味を感じる授業とも言っていた。リーディングの場合は、読む本を決めて教室で読むこともできるけど、ライティングの授業では、その都度、本が必要な場面が生まれてくる。勤務校の図書館がこじんまりしていてカンファランスしやすいことのメリットが最大限に生かされている、とも。
上記2つの指摘は、実は僕の実践の歴史をたどった指摘でもある。2008年からの3年間、僕はもともと、ライティング・ワークショップだけを、教室で実施していたのだ。それが、「この授業は図書館でやるべきだ」「ライティングだけじゃなくて、車の両輪としてリーディング・ワークショップも必要だ」となって、次第に今の形になった。だから石川さんの指摘通り、僕の中ではライティング・ワークショップの方がリーディング・ワークショップよりも大事なのだろう。ライティングでの僕のカンファランスが介入的だというのも、「鍛えたい」「書き手としての自分の経験を伝えたい」という意識もあるからである。もちろんアトウェルの『イン・ザ・ミドル』の影響も大きい。
「生徒Aに指導したいときにBに行く」方法
この日、一番考えさせられたのは、「あすこまさんは、いつも指導したい生徒のところにまっすぐ行く」という指摘だった。石川さんも佐内さんも、授業や学級経営の中で、生徒の人間関係を考慮に入れつつ「Aという生徒に指導したい時、どこに働きかけるのが良いかを考えている」らしい。考えた結果、Aに直接言うこともあれば、他の生徒に言うふりをしてAに聞かせることもあれば、Aが信頼するBと言う生徒に語ることで、Aに伝わるのを待つこともある。石川さんも佐内さんも「ある程度のベテランの先生は多くやっている」ともおっしゃっていた。ところが、僕は、そういう工夫を一切しない(できていない)のだ。Aに働きかけたい時、まっすぐAのところに行く。だから、Aと僕の人間関係がこじれてしまった時に、他に打つ手がなくなってしまう。
これについては、なるほどなあと思った。世の中の先生たちってそんなことを当たり前にしているのかと驚きもした。恥ずかしながら、これまでの教員生活で、僕はそういう発想を持ったことがない。いや、職場でもプライベートでも、僕は常に「働きかけたい相手のところに直接行く」人間であり、誰か他の人を介して間接的に…ということをそもそもしない/できない人なのである。というか、それ以前に、生徒の人間関係とか、あまり知らないし…。
考えてみると、中等教育の現場で働いていて生徒の友人関係に興味がないというのはかなり大きな欠陥だと思うのだが、僕の職場も生徒たちもとても個人主義的傾向が強いし、男子校でもあるので(佐内さん曰く、男子と女子でかなり異なるそうだ)、そんな僕でもたまたまなんとかやってこられた、ということなのかもしれない。
しかし、これはちょっと嫌だな…
この「Aに働きかけたい時にBに行く」、なるほどなあと思うし、一つの選択肢として持っておくといいのかなと思った(アドラー心理学の岩井さんも同じようなことをおっしゃっていたし)。しかし一方で、時間をおいて考えてみればみるほど、これはフェアではないのではないかという気持ちが強くなるのを否定できなくなってくる。生徒(に限らず他人)のプライベートな関係性を利用して自分の目的を達成しようとすることが、どこか「ずるい」気がするのだ。
仮に自分がそれをされたとわかったら、「操作」された感じでとても不快になるだろう(わからなかったら良いのかというと、僕はそういう発想は嫌いで、常にオープンになる前提で物事を考えている)。また、これは石川さん自身も指摘していたけれど、指導の際に生徒の人間関係を利用することは、その関係を強化することにも繋がるはずだ(例えば、スクールカーストを利用した学級経営が、その構造を強化することっていかにもありそう。いじられキャラの生徒を教師が利用して笑いをとっていると、その生徒がますますいじられやすくなる感じ?)。それもちょっと嫌だ。
授業者としてのスタンスと、僕自身のスタンス
そして、この「生徒のプライベートな関係性を利用したくない」気持ちと、僕が書き手の「共有しない権利」を守ろうとすることは、きっとどこかで繋がっているし、僕自身の対人関係の取り方(他人の人間関係にあまり興味がない)とも、きっと関係しているんだろうと思った。とすると、「Aに働きかけたい時にBに行く」方法を使うことは、とても、僕らしくない。というわけで、「なるほど、ベテランの先生たちはこういうこともできるんだ」ということは知識として持っておいて、自分では使わないかもしれないな。生徒の人間関係は、知っておいて使わない、くらいがいいのかも。
ここ数回、石川さんに来てもらって自覚したことは、僕は、国語科の教員として生徒の読み書きの力を鍛えたいと思っている一方で、生徒と一定の距離を保って、生徒の私的な領域に入ることには慎重である、ということだ。教室では、ただでさえ教師が「暴力」をふるっているのだから、私的な領域の侵食はできるだけしないように、という気持ちなのかも。それは、僕自身が、自分の私的な領域に入られるのを嫌がる気持ちと同一でもある。
授業者としてのスタンスと、僕の私人としてのスタンスは、切っても切り離せない。ただ、職業人(プロの国語科教員)として、このスタンスのままでいいのかどうかは、よくわからない。生徒にとってプラスになりそうな手段は、できるだけとったほうがいい、という考えももっともである。実際、僕と関係がこじれてしまった生徒Aを指導するには、他の生徒Bを利用すべきなのかもしれない。だから、僕のスタンスが今後どうなるかわからないけれど、現時点の僕自身のあり方として、ここに記しておこうと思う。