しばらくご無沙汰してしまいました、学年末の成績付の時期で忙しかったせいか、また体調を悪化させてしまい、めまいと嘔吐に苦しんでいました…。うーん、体調って本当にやっかい。ブログでも書きたいことはいくつもあるんだけど、体力がなくて追いつかない現状でした。そんな中、先週にはなんとか無事にライティング・ワークショップの成績を出しています。
「一つ一つの作文に成績を出さない」凄み
ライティング・ワークショップの成績というと、思い出されるのはアトウェルのこの言葉。
これ、さらっと書かれてるけど、相変わらずすごい言葉である。前に下記エントリでも書いたけど、育てる相手が「作品」ではなく「書き手」である以上、この原則が正しいんだろうと、今では納得する。あくまでも評価は「書き手」中心になされるべき。自己評価を中心にして。都市部の学校であろうと、地方の学校であろうと、そして本校であろうと、どこで教えるにせよ、私は一つ一つの作品に成績をつけることはしません。(In the Middle, p300)
でも、実際の教室では成績の出し方などもあって、「成績」はつけざるを得ず、なかなかそういうことはできないわけで…。
今学期の成績のつけ方
で、僕がどういう風に成績を出しているかというと、下記エントリのような考え方でやっています。
以前は数段階に分けてもう少しはっきり点差をつけていた時もあった。でも今はほとんど点差はつけず、提出すればみんな高い点数。そうするとどうなるか。僕は必ず全員の作品に文章でフィードバックを返しているのだけど、そのコメントの書き方が変わる。
以前のコメントは「満点ではない理由」としてほとんどの生徒には僕から見た欠陥の指摘を少しは書いていた。でも、その指摘が妥当だとしても、それは本来「完成前に、カンファランス中に言うべきこと」なのだ。最終評価で欠陥を指摘されても、今後改善の機会がない生徒にはほとんど響かない。「それならカンファランス中に言ってよ」という話になる。
今は「出せば満点」なので、「満点ではない理由」を書く必要がない。そこで、これまでのカンファランスや大福帳の記録を読み返し、生徒の書くプロセスを思い浮かべながら、一人の読者として、自分はこの作品をこう読んだ、この作品にはこんな技術が使われていた、と伝えている。完成作品に対しては、このほうが欠陥を書くよりもいいんじゃないかなあ。気持ちよく達成感を持って終われるし。(ちなみに、読んでいて気づいた生徒の書く技術の基本的な課題は、いつか別の作品でライティング・ワークショップをやる時のために、自分用のエクセルにはメモしている)
このスタンスのコメント、実は評価者の僕にとっても、いい訓練になる。だいたい、僕たち誰でも、相手の文章の欠陥を見つけるのは簡単なのだ。素人にもできる。僕たち教師がすべきなのは、そういう欠陥の指摘もあるが、「相手ができていることを見つけて、それを指摘することで、再現・強化すること」である。しばしば若い書き手は、自分ができていることに気づいていない、あるいは自信がないからだ。
というわけで、今学期末はひたすら、全ての生徒の作品に対して、「この作品の中で書き手が達成していること」を書いておりました。ただ、このやり方がどうなのかは、もうちょっと経ってみないとわからないなあ。3年後くらいにはまた違う考え方になっているのかも。
アトウェルは、完成作品にコメントしない
ところで、アトウェルは、完成作品にコメントする、ということ自体をしてしない。書く途中にカンファランスするのが教師の仕事だ、というのだ。その理由を、彼女は次のように述べている。
完成作品にコメントするのでは遅すぎるからです。この従来のやり方は、生徒が次に書くときまで教師のコメントを覚えていて、それを新しい作品に応用できると考えていることになります。そもそも、生徒は教師のコメントを読むのでしょうか? 日曜日を使って、余白にコメントを書く教師は、これが本当に役立つのかという疑いを捨てきれないと思います(p208)
いやあ、ごもっとも。カンファランスを受け持ち生徒全員と十分にできていたら、「完成作品にコメントする」こと自体、いらないんだろうなあ。もっとも僕はそんなことができていないし、全員の完成作品にコメントし続けていますが…。成績のつけ方と評価の仕方、まだまだ改善の余地がありそうです。
うーむ、評価の考え方に深く「なるほど」と思わせられました。書き手を育てるのであって、完成作品を目指すのではない。なるほどです。作品への評価文も、一読者としての感想を書くだけで良いのですね。深く納得しました。
いや、あまり信頼しすぎないようにお願いします…w こちらもこれでいいのか迷いながらですのでー。