違う「風景」が見たい。ライティング・ワークショップをやってて感じる壁。

下記エントリで書いたように、中2のライティング・ワークショップ「ショートストーリーを書く」もほぼ終了。今回は、留学から帰ってきて初めての創作系ライティング・ワークショップだった。見学者の方のコメントなども交えつつ、振り返りを書いてみる

お楽しみ、ライティング・ワークショップで文学賞

2017.02.24

ライティング・ワークショップを始めた8年前と比べて、見えてきたことと、自分にできていないこと、まだ僕には見えてこない「風景」とは何かという話。典型的なDiscovery Writing(人に伝えるための文章ではなくて、自分で考えるための文章)なので、読む方向けにまとまっていません。すみません…。

目次

「書くことのハードルを下げる」場づくり

今回のライティング・ワークショップは、今までの自分の取り組みで一番「書くことのハードルを下げる」ことを気にしていた。
具体的には、生徒の自由裁量の余地を確保することと、不安を取り除くことだ。

自由裁量の余地を大きくする

「自由裁量の余地を大きくする」のは、ライティング・ワークショップの基本。生徒は机でも、畳の上でも、図書館ならどこで活動してもいい。Chromebookを使って書いてもいいし、手書きをしてもいい(とはいえ最終的にはGoogle Classroom経由で提出なので、メモ以外に手書きで書いた生徒はいなかったけど)。授業時間中に書かずに本を読んでいてもいい。一人でやっても、Chromebookで共同編集をしてもいい。

相性抜群!ライティング・ワークショップとChromebook

2017.02.01

この辺の基本となる「生徒に選択権を与える」という考え方自体は、ライティング・ワークショップの実践者にとっては「当たり前」レベル。けれど、授業見学に来てくださった某県教育委員会の方は、

ずいぶん思い切って生徒に任せるなあと驚きました。活動させるにしても途中で集めて何か指示したくなるものですけど。

と驚いていたので、やっぱり通常の授業に慣れた目には良くも悪くも自由に映るらしい。

不安を取り除くこと

上記に加えて今回気をつけたのは、書き手の不安を取り除くこと。具体的には、ショートストーリーを書くことをずいぶん前から(二学期の最初から)予告してアイデアを温める時間は十分に与えたし、「共有しない権利」の話もした。カンファランスでも良い点を常に指摘したし、Chromebookという強力なツールも得たので、共同編集も可能にした。作品の読み合いもペンネーム。一つ一つは小さなことだけど、それが積み重なると、書き手の心理的ハードルもけっこう下がるんじゃないかと思う。

「表現を評価されること」に対する生徒の不安な気持ち。

2017.01.19

「共有しない権利」と「下書きの読み合い」のジレンマ

2017.01.25

「共有することの怖さ」

今にして思うと、以前の僕はこういう「書き手としての不安」に十分に向き合ってこなかった。多分、昔は僕自身が書いていなかったので、実感として「不安」がわからなかったのだと思う。また、勤務校の生徒は世間一般では高学力の生徒達なので、それに甘えて「書けない」問題はあまり起きていないとも思っていた。けれど、いったんきちんと意識してみると、偏差値などには関係なく、自分の表現を評価されることは誰しも臆病で不安なんだということがよくわかる。まずはそれに向き合って、肯定すること。自分も同じ不安を共有すること(=自分も書くこと)。そして、少しでも安心できる場を作ること。その大切さを、ようやくここ数年で実感している。

なお、授業での読み合いだけでなく、作品集もペンネームのままで作る。「担任の先生たちは誰が何を書いたか知りたいかな?」と思ってペンネームにしたい希望を説明に行ったら「共有することの素晴らしさばかり言われるけど、怖さもあるよね」と快諾してくれたことは、とてもありがたかった。そう、共有することの怖さもあるのだ。

ちなみに、書くものをショートストーリーに限定することにはプラスもマイナスもあるのだけど(下記参照)、でも、完成したショートストーリーは、短いゆえに、一度の授業でたくさんの人と交換できる=肯定的な感想をたくさんもらえる。これは間違いなくプラス。このメリットは捨てがたくて、僕は今後も小説の創作はショートストーリーに限定すると思う。

創作の授業のおともに! 「4ページの物語」のブックリスト

2017.02.10

自分の課題1:生徒同士の関わり合いについて

以上は、以前に比べると意識できるようになってきたこと、ここからは授業者としての自分の課題の話。最近思うことなのだけど、ひとくくりに「ライティング・ワークショップ」と言っても、それは大きな器のようなもので、そこで起きていることは人によってまるで違うのではないか。たとえば、プロジェクト・アドベンチャーから入ってきたkAIさんや(小学校教諭時代の)岩瀬直樹さんのライティング・ワークショップと、「読み書きの学力の向上のためにはたくさん書いて読めばいい」と思って始めた僕のライティング・ワークショップは、違う入り口を通っているだけに、見えている「風景」が随分違うと思う。小学校と中高という校種の違い以上の質的な違いがそこにある気がする。

そういうことをあらためて気づかせてくれたのは、見学に来てくれた学芸大学の院生の方。以前にKAIさんのリーディング・ワークショップも見学された方で、その時と比較して次のように感想を書いてくれた。

あすこまさんに「教科教育」という意識が明確にあることがやはり一番の違いかなと思います。私が○○さん(=KAIさん)の学校を観に行った時はリーディング・ワークショップ(読書家の時間)だったので一概には言い切れませんが、国語科の授業時間と朝読書の時間をつなげて毎日のルーティーンにしているといったような印象でした。教科の学習としての性質は もちろん活かしながらですが、どちらかというと「安心・安全な場づくり」の一環としての色が強いのかもしれません。

参観のタイミングの問題かもしれませんが、子どもたちの取り組み方にも少し違いがあるように感じます。小学校の方では、児童がお互い完成させた作品だけでなく、執筆のプロセスでも積極的に読み合ったり、アドバイスをしたりするような印象がありました。発達段階の違いと言ってはそれまでかもしれませんが、もしかしたらそういった執筆過程の交流を奨励するようなインストラクションがあるのか、或いは普段から「教え合う」ものとして授業が行われているからなのか…いずれにせよ、私も改めて小学校の実践も観てみたいと思います。

そう。僕の授業は多分、(お互いの関わり合いを自由に許可しているし、共同編集している子もいるけど、全体としては)「個々で取り組む活動」という印象が強いはずだ。僕自身、40人学級の教師のカンファランスは厳しいと思っている(下記エントリ参照)ので、もうちょっと自然にお互いに関わってほしいなと思っているけど、そういう生徒は少数派。ここに、今の自分の限界を感じている。

どうする? 難しい40人学級のカンファランス

2017.02.17

いまの僕は、教室全体で一斉に読み合うような活動は、あまりやりたくないと思っている(実際にはやっているけどなくしたいと思っている)。それは、「共有しない権利」とのジレンマが生じるからだ。(下記エントリ参照)

「共有しない権利」と「下書きの読み合い」のジレンマ

2017.01.25

でも、個々の文脈での必要に応じた関わり合いは、もっと起きて良いと思う。もちろん必要でなければやらなくて良いんだけど、おそらく、今の段階の生徒たちは、必要でないからやらないのではなく、お互いにとってプラスになる関わり合いがまだできていないだけという気がする。だから、関わり合いが生じにくい。

関わり合いが生じにくい理由は?

僕の授業で生徒同士の関わり合いが生じにくいのは、いくつかの理由が考えられる。おそらく、

  1. 僕が参考にするアトウェルがもともとピア活動を重視していない
  2. 基本的には個人主義の校風(教師も生徒も個人主義)
  3. 気軽に協力しあえるような雰囲気を僕が作れていない
  4. 毎日かかわる小学校の先生と週2日程度の中学校教科担当の違い
  5. 「関わりあうこと」自体には僕自身もそこまで価値を置いていないので、「関わりなさい」みたいなことは言わない

あたりが理由のはずだ。小中の違いや校風に由来するものもあるけど、僕の個人的特性によるものもある。だから、例えばKAIさんのようにプロジェクト・アドベンチャーの土台をもとにライティング・ワークショップをやっている方の取り組みから色々と学べば、もう少し協働的な雰囲気が作れないかな…ということを感じている。

ここまで書いて気づいたのだけど、本当に安心してお互いに関われればペンネームだって必要ないのだから、ペンネームを使っていること自体が安心できていない証拠とも言える。またペンネームを使って匿名性を高めること自体が、相互の関わりを起きにくくしている側面もありそうだ。うーん、なるほど。僕は「共有しない権利」を尊重することが大事だと思ってペンネームを使っているけど、それ自体は間違っていないとしても、結果としてペンネームを必要ないと感じる生徒が増えるのが理想、ということなのかな?

自分の課題2:プロセスへの関わりについて

僕の感じるもう一つの課題が、生徒とのカンファランスの関わり方だ。僕の考えるプロセス・アプローチの本質は、作文が出来上がるプロセスへのアプローチという以上に、書き手が成長するプロセスへのアプローチ。もちろん、教師がその都度向かい合うのは個々の書きかけの作品なのだけど、それを通して書き手を見て、書き手の成長に関わっていく。それがライティング・ワークショップの教師の仕事だと思っている。

でも、僕はそれが頭ではわかっていても、できていない実感がある。いつまでも目の前の個々の(作成途中の)作品を相手にしている気がしてしまう。どうしたらここから抜け出して、「書き手」にフォーカスできるだろう。

これについては、「生徒の書くものならなんでも楽しめる自信がある」という石川晋さんの言葉が、いつも気になっている(下記エントリ参照)。

書かれたものを通して、書き手のストーリーを読むこと

2017.01.22

今の僕には、彼のように「書かれたものを通して、書き手のストーリーを読むこと」が、ライティング・ワークショップでカンファランスする教師の、おそらくもっとも大切な仕事なのだ、という予感がある。

そうできるようになるために、何が必要なのだろう。おそらく作文の技術ではない。そして、目の前の個々の作品をいくら注意深く読んでも、このギャップは埋まらない。書くことはどういうことか、人が成長するとはどういうことか、目の前にいる生徒はどんな人か。書き手としての生徒への理解や興味関心。そして非言語情報を含めた書き手への観察力。そうしたものが、きっと今の自分には決定的に足りていないのだ。

もっと違う「風景」を見たい

自分はライティング・ワークショップに興味があって、本や論文は読んでてブログにも書いたりするから「実践者」と見られることもあるけど、けれどそう呼ばれるには授業者としての力はまだまだだなあと思う。個々の生徒のライティング・プロセスを、全然支えきれていない実感がある。そのうち一つが、生徒同士の自然な関わりあいがもっと生じる場作りだったり、作品を通し書き手のプロセスにフィードバックするカンファランスのあり方なのだろう。

この2つがなんとかなれば、今とは少し違うものが見られるんじゃないか。それを見てみたい。今の僕は、授業をしている自分に不満があるというか、このままでも「こなせる」んだけど、見えない壁を感じている。その壁を超えた時に、どんな風景が見られるんだろう。漠然とそれを思い描いている。

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