先週、WW/RW便りで、「AIが作家の時間で絵本を作ったら」という記事を読んだ。この記事ではAIがそのまま物語をつくることへの話だろうけど、作家の時間でのAIの具体的な応用場面の最たるものは、教師のカンファランスの代わりにAIを相手に使う使い方のはずである。僕は生成AIにはとんと無知で、「小学生はChatGPTを使えないらしい」くらいの理解で、授業でまともに使おうとしていなかった。でも対教師の生徒数が多い日本の教室において、「生成AIとの対話はカンファランスの代わりになるか」という問いは、とても魅力的な問いだ。教師がカバーしきれないぶんを生成AIがカバーしてくれたら、良いに決まっている。その点について、現時点での考えを書いておきたい。実際に生成AIをカンファランスで使う場面を見たら、考えが変わるかもしれない、その程度のものだ。
目次
生成AIとの「カンファランス」体験
授業では未使用とはいえ、生成AIとの「カンファランス」(対人のカンファランスと区別するためにカギカッコをつける)体験は、僕にもある。『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』を書く期間、Chat GPTを有料契約して、章立てへのアドバイスから、下書きを読み込んでの改善提案から、この期間だけは色々使っていたのだ。
ただ、その期間でも「まあまあ使えるな」という思いと、何か物足りない思いの双方を味わっていて、徐々に違和感のほうが募るようになった。その最大の理由は、「提案を受け入れる気になれないことが多い」ことである。これは僕のプロンプトの書き方にも問題がありそうだが、ChatGPTの提案は、いわば全方位に丸くなるものが多くて、そもそもがあまり魅力的ではない。「なるほどたしかにそうだよね」とは思うが、受け入れる気になりにくいのだ。また、「彼」に章立てを見てもらったり文章を採点してもらったりすると、基本的にはとても高得点でやたら褒めてくるので、なんだか調子のいい「ご機嫌取り」のように見える。それが不満で、辛口ベースで採点してもらうこともできるのだが、そうすると「90点を要求するれば90点の、60点を要求すれば60点の採点をする」相手の振る舞い自体が「信用ならない人間」に思えてしまう。というわけで、結果的に僕にとって、ChatGPTは「賢しげなご機嫌取り」キャラに見えてしまったのだ。それで、基本的には、生成AIよりは岩波書店の編集者(山本さん)のコメントのほうに、取り入れるにせよ取り入れないにせよ、真剣に耳を傾けていた。結局のところ執筆終了とともに有料契約も解約して、今はときおり使う程度になっている。
生成AIには、フィードバックの背景文脈がない
こうした(僕にとっての)生成AIの「嫌なキャラ」化は、そもそもが生成AIに人格を求めてしまう自分の心持ちの問題なのかもしれないし、プロンプトの書き方でどうにかなるものなのかもしれない。ただ、一つ対人カンファランスとの大きな違いは、生成AIとの「カンファランス」には背景文脈がほとんどないということだ。通常、僕らは自分の文章への相手のフィードバックを、相手や相手と僕をとりまく関係性の中で受け取る。「この人の言うことなら聞いてみたい」という人もいれば、逆に「まあこの人と僕は好みが違うから、よほどのことがないと言うことは聞かないな」という人もいる(笑) 「ふだんはこういう物言いをしないこの人がここまで言うのか。だったら聞いたほうがいいのかも」ということもあれば、「色々言ってくるこの人が今回は何も言わないって、何かあるかな」ということもある。ここでは、発言内容だけでなく、相手の言い淀み、表情も、相手のフィードバックを判断する根拠になる。つまりは、僕は文章へのフィードバックをその内容だけでなく、相手のキャラや好みや僕との関係性、非言語的な情報、過去のカンファランス経験までふくめて総体として受け取っているのだ。そして、どこまで受け取るのかを判断している。
ところが、生成AIの「カンファランス」には、その「総体=文脈」がない(あったとしても、人間に比べてはるかにとぼしい)。だから、彼の提案をどこまで受け入れるかが判断しにくいのだ。文字面だけを見て、100パーセント受け入れるか却下するか、みたいな極端な取り扱いしかしにくくなってしまう。この点は、人間とのカンファランスに比べて、とても使いにくい。そしてその文字面が「こちらの心地よいことばかり言ってくる賢しげなキャラ」なので、どうしても心理的に受け入れ難くなってしまうのである。
いまのところ、生成AIを僕が使うのは「どうでもいい文章を書くとき」程度である。形式的な文章や、たいして書きたくない文章を書くときには、生成AIに任せる程度がちょうど良い。
子どもたちに生成AIの「カンファランス」は有益か?
ここまでが、大人の書き手としての僕が使う場合の感想だが、では子どもが使う場合にはどうだろうか。少なくとも、僕がいま受け持つ小学校56年生を想定すると、僕は生成AIをカンファランス相手として使うことには、全体としてあまり肯定的になれないでいる。理由はいくつかある。
文章の質の高さは重要ではない
生成AIと「カンファランス」しながら、その助言にしたがって書けば、たしかに大多数の子どもが書く文章よりも質の高い文章ができるだろう。しかし、作文の授業が目指すべきなのは、「結果として書かれた文章の質の高さ」ではなく「書き手の経験の質の高さ」である。生成AIを使うことで書き手の経験の質が高まるかが重要なのだ。たとえば、小さな子が木切れを組み合わせて釘を打ってがんばって剣をつくった。この剣は、おもちゃ屋で売っている市販の剣に比べたらはるかにみすぼらしい。しかし、おもちゃ屋でお金を出して格好いい剣を買うよりも、自分で剣をつくる経験の質のほうがはるかに高いだろう。また、3Dプリンターで剣をつくることだって素晴らしいが、やはりその前には、自分の手で立体物をさわって剣をつくる経験が優先されるだろう。
誤解されると困るのだが、お金を出しておもちゃの剣を買うことや、3Dプリンターでのものづくりが悪いとかズルだとか言いたいのではない。それは、木切れでの剣づくりを十分楽しんだ子にとっては良い選択肢になりうるが、まずは自分の手で五感を働かせて木の剣をつくる経験のほうが優先されるべきだし、ある段階までの子にとっては、そういう経験のほうが質が高いということだ。
書くことにも、同じことが言える。書き始めたばかりの若い書き手に必要なのは、生成AIのサポートとともに質の高い文章を書く経験ではない。まずは、自分の手で存分に書く経験である。
この時、物語の設定などについて、生成AIは実にたくさんの提案をしてくれるので、それを活用するのも良いかもしれない。しかし「選択肢の中から選ぶ」と、「自分であれこれ考えて作り上げる」は、実際の行為としては大差なくとも、本人の意識の差は大きい。何も思いつかないときに生成AIの示す選択肢に乗ることは「アリ」だが、多くの子が最初から生成AIが示した候補の中から選ぶだけになっては、創作経験の質はやはりだいぶ落ちてしまう。書く時には苦しむ時間が必要なのだ。
要するに、うまいへたは、どうでもいいのである。自分で試行錯誤して、時に苦しみながらも、自分の手でつくった実感や誇りが持てることが大事だ。それが、書き手としてのアイデンティティをつくっていく。
子どもは生成AIの助言を断れない
別の理由として、子どもはおそらく生成AIの助言を断れないだろうこともあげられる。すでに自分のスタイルや好みを持っている僕の場合と違い、自分のスタイルをこれからつくっていく段階の若い書き手たちにとっては、生成AIの助言は「正解」に映るはずだ。意味もわからず(漢字も読めずに)Wikipediaを丸写しする子たちをたくさん見ている僕からすると、仮に授業で子どもたちが生成AIを使うようになったら、その圧倒的多数が生成AIの「カンファランス」をただ受け入れるだけになるように思う。僕は子どもたちにも「書き手に必要なのは助言を聞く素直さと、断る勇気だ」と述べている。しかし、子どもたちが生成AIの助言を断れるとは、僕にはちょっと思えない。
校正面では役立ちそうだが…
生成AIに任せて問題ないのは、文章の校正面の「カンファランス」だろう。しかし、これは作文の授業で何を目指すかという問題と関わるのだが、そもそも僕は、質の高い文章を書くことを一番のゴールとはしていないので、そのためだけに他のデメリットに目をつぶろうという気にもなれない。書き手の「書き手らしさ」などが全く問題にならない形式的な文章なら、生成AIをおおいに使っていいと思うのだが、そんな文章はそれこそ将来も生成AIに書いてもらえばいいのだから、学校で時間をとって書く必要性を感じないのだ。
でも、授業を見学するのが楽しみ!
ちょっとネガティブな感想が多めになった。僕の知人には生成AIの活用に熱心な人もいるので、どう読まれるのか正直気になる。でも、現時点での僕の考えとして、このブログにそのまま置いておこう。いったんはこの考えを書き残して、後日読み直すための参照項としたい。
そんな僕も、この年度内には生成AIをカンファランスに活用されている教室の見学に行く計画もある。プロンプトを工夫されているようで、実際に見学して、自分がまたどう感じるのかが、楽しみだ。